
プロフィール
名前:戦国アイコ
戦国武将とカフェが大好きな20代独身会社員
- 特徴:残業は嫌い。仕事の後カフェでまったりするのが大好き。
- 趣味:猫と遊ぶこと。推理小説を読むこと。
- モットー:ほどよく頑張る。
- 好きな食べ物:スウィーツ(特にクリームあんみつ)
- 嫌いな食べ物:梅干し、納豆。
プロフィール
名前:戦国アイコ
戦国武将とカフェが大好きな20代独身会社員
こんにちは!戦国LOVEのアイコです(^_-)-☆
今日は、秀康さんの初陣のお話から✨
家康を無事に配下に収めた秀吉は、1587年3月1日、いよいよ九州の島津討伐に向け、
佐々成政、浅野長政ら、総勢1万4千の兵を率いて自ら出兵しました。
当時14歳の秀康も、百騎足らずの兵を率いて、家臣の本多富正と共にこの行軍に付き従います。
そして3月28日に、豊前小倉に到着。
武功を上げるぞ~!!
秀康は張り切るのでした。
さて、この九州征伐の軍事総責任者は、この人、黒田官兵衛(当時41歳)です。
【黒田官兵衛/Wikipediaより】
さすが!軍師 官兵衛!
ちなみに官兵衛は、この2年程前に、洗礼を受けたキリシタン大名だよ。
洗礼名は「ドン・シメオン」。
後の名前「如水」は、聖書に出てくる人物「ジョシュア」から取ったものだと言われています。
官兵衛は、まず最初に今の福岡県にある『岩石城(がんじゃくじょう)』を落城させる事を考えました。
この岩石城は、高さ446メートルの岩石山頂に築かれた『豊前一の堅城』ともいわれる
難攻不落の城。
反 大友勢力の秋月種実(あきづき たねざね)の本拠地で、3千の兵が守る強固な城で、
落とすのに最低でも、ひと月はかかる、と言われていました。
普通の武将であれば、そんな強固な城を、最初に、わざわざ攻めないはず。
けれどそこは豊臣随一の軍師、官兵衛!
攻め入る前に既に調略し、内部より崩させ、1か月もかからず落城させる計画でした。
もしこの岩石城が、九州征伐の初戦で、ひと月持たずに落城したら・・・
九州の反秀吉勢力にとっては、大ショック!!かなりの脅威!!
始めに敵に心理的に大打撃を与えることは、その後の戦いが有利になる!
そんな理由で秀吉軍は、官兵衛の指令の下、最初の戦として岩石城陥落を目指すことになりました。
秀吉の命で、先鋒部隊という一番重要で危険、でも武功があげやすい花形の任務は、
蒲生氏郷(がもう うじさと)※32歳 と前田利長(まえだ としなが)※25歳 の2人に決定しました。
【蒲生氏郷/Wikipediaより】
ちなみにこの蒲生氏郷もキリシタンで、洗礼名は『レオン』!
レオンと言えば、映画『レオン』のイメージだよね💖
孤独な殺し屋ジャン・レノのように、めちゃくちゃ戦闘能力高そうな洗礼名だなぁ~
それに蒲生様と言えば、
尾崎紀世彦ばりの、このモ・ミ・ア・ゲ💖が素敵♪
一度見たら忘れないよね!
また逢う日まで~♪って感じねww
そして秀康は、第二陣に配属され、
過去、信長の家来として沢山の戦さを経験したベテラン武将、佐々成政(51歳)に従って出撃することになりました。
【 佐々成政肖像(富山市郷土博物館蔵)】
いよいよ初陣だね~、秀康さん!!
こうして、第一陣と敵の激しい戦いがスタート!
今まで聞いたこともない大きな喚声、そして耳をつんざくような銃声が響き渡る!!
オオオッ~~!!
山の麓で待つ、佐々成政と秀康らの第二軍勢。
ドキドキドキドキ。
身体はブルブル震え、歯はガチガチ。秀康は出撃の命令を待ちます。
しばらく時が過ぎました。
まだ、秀康ら第二陣に出撃命令はでません。
激しく鳴り響く銃声。蒲生氏郷勢は大奮闘!多きな破壊音も聞こえる!
またしばらく時が過ぎました。
けれどまだ、第二陣への出陣命令は出ません。
まだ行けぬのかぁー!!
苛立ちと焦りが募りる秀康。
そのうち山頂に火の手が上がり・・・
秀吉はここで一気に全体を攻め潰す戦略に出ました!
ここで、ついに第二陣にも出撃命令が!
秀康、いよいよ出撃です!
よっしゃー!!
麓から急いで山頂を目指す、秀康。
一刻も早く山頂まで駆け上がりたい!そして敵と刀を交えて戦いたい!
やっと山の中腹まで登った時、山頂から使いの者が降りてきて叫びました!
「もう落城したので、出撃は無用です!」
・・・って、マジですか⁉
初陣の意気込み返して・・・・涙😭😭😭
あらら。
難攻不落の岩石城が1日かからず落城しちゃったね。
秀康さん、武功どころか刀さえ抜く機会なかった。
勝利したけど複雑な心境だね。
結局、出番がなかった秀康さん、悔しいやら恥ずかしいやらで大号泣!
そして佐々成政に、
『氏郷殿の活躍に比べ、自分には何の戦功も無くて悔しいです!』とザブングル加藤ばりに語ると、
成政は、
『あなたはまだ若い。戦功を上げる機会は、これからいくらでもありますよ!』と、慰めたんだとか。
岩石城を落とした秀吉軍勢は、そのまま勢いで筑後、肥後、薩摩、出水と攻めていきました。
でもそれらの戦さでも、秀康には、ついに一度も刀を抜く機会は訪れませんでした。
トホホ・・・
秀康は、豊臣と徳川を繋ぐ養子人質。
秀吉さんは、秀康を戦さで死なせる訳にもいかず、
かと言って、大活躍して豊臣内での評価を上げる訳にもいかず、
とりあえず形式上、初陣デビューさせただけなのかもねww
初陣が無惨に終わり大阪に戻った秀康に、翌年1588年、さらにショックな出来事が続きます。
その年の暮れ、何と秀吉の側室 茶々の妊娠が判明したのです。
53歳にして、ついに!やっと!自分の子供が出来た秀吉は、まさに狂気乱舞!!
でも養子である秀康さんの立場は、急にビミョーになってきたぞ~
翌年1589年5月 鶴松(つるまつ)が誕生し、秀吉は、この鶴松を正式に後継者に指名しました。
そして秀康は、あっけなく再び他家に出されることになったのです。
11歳で豊臣秀吉の養子になり、16歳で再び他家の養子へ。
実父よりも自分を可愛がってくれた(ように思えた)秀吉だけど、
実子が産まれてしまえば、サッサとお払い箱。
所詮は、外交上の駒でしかないのか~泣
秀康の新しい受入れ先に決まったのは、下総(茨城)の名家、結城(ゆうき)家でした。
結城家は、平 将門を滅ぼした藤原秀郷(ふじわらの ひでさと)の子孫を祖とする小山家の分家。
由緒正しい名家で、当主は、17代目の結城晴朝(はるとも)。
小山家については、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に今後出てきますよ~♪
【結城晴朝/Wikipediaより】
秀康と結城家の縁組が決まった頃、ある事件が起こります。
ある日、秀康が馬場で馬に乗っていると、秀吉の家臣が別の馬に乗って、近づいてきました。
この時代、身分の下の者が、乗馬のまま近寄ってくることは、本来あり得ない無礼な行為。
なので秀康は、『無礼者!馬を降りよ!』と注意しましたが、
秀吉の家臣は、もうすぐ他家の養子となる秀康を馬鹿にしたのか、一向に降りようとはしません。
さらに、秀康が馬で走り出すと、後から競うようについてきたのです。
怒った秀康は、
「自分に対して許しもなく競りかけてくるとは無礼である!」と、馬に乗ったまま、
その家臣を斬り捨ててしまいました。
あちゃ~!秀吉さんの家臣を殺しちゃった!
秀康さん、ちょっとやり過ぎじゃない?
でも幸いにも、この事件について秀吉は、
『養子の秀康への無礼は、自分への無礼と同じ』って、秀康を責めなかったので、とりあえず良かった!
まぁ今の秀吉さんは、晩年に可愛い我が子が誕生し、秀康はゴネることなく他家へ出せるし、ルンルン気分!
だから、秀康が一家臣を殺したことなんて、大した問題ではなかったのかもww
つらい境遇の中、表面上は何とか理性を保ってきた秀康さん。
でも、無惨な初陣、鶴松の誕生、結城家への養子へ・・・
精神的ショックとイライラとやるせない気持ちが、
この事件で爆発しちゃった?
さて、結城家の養子になる秀康さん。
新しい場所では、どんなことが待ち構えてるんだろう??
つづく☆次回をお楽しみにね💖