プロフィール
名前:戦国アイコ
戦国武将とカフェが大好きな会社員
- 特徴:残業は嫌い。仕事の後カフェでまったりするのが大好き。
- 趣味:猫と遊ぶこと。推理小説を読むこと。
- モットー:ほどよく頑張る。
- 好きな食べ物:スウィーツ(特にクリームあんみつ)
- 嫌いな食べ物:梅干し、納豆。
プロフィール
名前:戦国アイコ
戦国武将とカフェが大好きな会社員
こんにちは!戦国LOVEのアイコです♬ 今回は、いよいよ名胡桃城事件のお話だよー☆
【名胡桃城近くの道の駅・中山盆地】
【やっぱりミックスが好き💖】
1589年7月、秀吉の裁定により、沼田城は北条の所領、名胡桃城は真田の所領になりました。
沼田領の取り合いをしてきた両者は、これで一件落着のはずだった!
しかし!
それからわずか4ケ月後11月、北条氏は真田氏の所領である名胡桃城に攻め込んでしまったのです!!
これを名胡桃城事件と呼びまーす。
あちゃ~!北条さん、秀吉様の裁定をガン無視!!
ケンカ売ったね。
まぁ、プライド高い北条氏政としては、本能寺の変後に急激に勢力を伸ばした、信長の一家臣に過ぎなかった秀吉に対抗心があったんでしょう。
こんな裁定、ふざけるな!
沼田領は全部北条のもの!
なぁんて、ムカついてたりしてww
一応、北条の当主である息子の北条氏直は、秀吉に対して、
『沼田城代の勝手な行動です!北条の命令ではありません!』と釈明はしたらしたらしいけどね。
実際には、城代の猪俣さんを処罰するどころか褒美を与えてるしww。ま、確信犯でしょう。
こうしてメンツをつぶされた秀吉は、1590年北条に宣戦布告し、いよいよ天下統一の総仕上げ、
小田原征伐が始まりました!
兵力約20万という史上最大の軍事力で、最後の独立大勢力である関東の北条氏の支城を次々と落城させ、本城の小田原城を3ヵ月に渡って攻囲、降伏させてしまったのです。
北条氏、オワタ( ;∀;)
北条早雲から始まり、関東で大勢力を誇った北条氏も5代で終わり。
プライドを捨てきれず、秀吉に服従できず、
時代を見誤っちゃったね。
ちなみに、この北条氏の支城の一つが、埼玉県にある忍城です!
忍城の水攻めでは、アイコの大好きな石田三成さんが活躍したので、こちらの過去記事も見てね。
戦国ちゃんがゆく!難攻不落のお城!忍城☆
https://sengokucafe.com/345/
アイコの部屋☆第1回目ゲストは石田三成さん
https://sengokucafe.com/520/
名胡桃城事件をきっかけに起きた小田原(北条)征伐。その戦後処理で、沼田城はめでたく真田氏に返還されました!
そして、昌幸の長男・信之が支配することになったのです。
真田昌幸、
ずっとこだわり続けた悲願の沼田城を再ゲット!!
今後は、長男が沼田領を治めることになり、真田は安泰だね!
名胡桃城事件、バンザイ!!
以上、名胡桃城事件のお話でした☆
って・・・
せっかくなので、その後の真田昌幸、一族、そして沼田領はどうなったか?
のお話もしたいと思いまーす☆
沼田領を取り戻した真田家でしたが、穏やか日々は長くは続かなかった。
1598年、豊臣秀吉死去。
2年後の1600年の関ヶ原の戦いでは、石田三成側の西軍につくか?徳川家康側の東軍につくか?
真田一族にとって、重大な決断を迫られます。
最も重要なことは、真田家を存続させること
そう考えた昌幸は、この戦いでどちらが勝っても、真田が絶えないようにと、昌幸と次男の幸村は西軍に、長男の信之は東軍につき、親子が分かれて戦うという苦渋の決断をしたのでした。
この時のエピソード『犬伏の別れ』は、過去記事を見てね!
戦国ちゃんがゆく! 真田父子 犬伏の別れ
https://sengokucafe.com/202/
親子分かれて戦うなんて、エグイのぉ。
でもとにかく、真田家の存続が第一優先!
1600年、関ヶ原の戦いは東軍が勝利。
東軍についた長男・信之は、父昌幸の所領だった上田領も合わせて継承し、沼田と合わせ9万5千石の上田藩として立藩しました。
その後、信之は上田に本拠を移し、沼田城は信之の長男・信吉が城主へ。
【沼田城址公園にあった沼田城絵図】
良かった!!良かった!!
昌幸→信之→信吉(信之の長男)
信之が、しっかり父昌幸の想いを受け継ぎ、真田家を存続させ、
親子3代、沼田城、沼田領は着々と受け継がれているね。
もう泰平の世の江戸時代、安定ですのぉ。
その後、信之は、松代藩13万石(信濃国内の藩では最高の石高を有する)へ加増移封されますが、沼田領は引き続き真田の所領のまま、松代藩の分領とされました。
【沼田城址公園】
新たに松代藩も所領とし、沼田領もそのまま真田のもの!
苦労して手に入れた沼田ですもんね。
そうやすやすと手放す訳にはいきません。
1638年、沼田領を治めていた長男の信吉が死去したため、今度は次男・信政が沼田領を継承しました。
ちなみに、次男・信政は小松姫の息子で、本多忠勝の孫です。
大河ドラマ真田丸では、吉田羊さんの息子であり、藤岡弘さんの孫ってことね。
長男の信吉は、信之の前妻の子供です。
1656年、91歳になった信之が隠居したため、沼田領を任されていた次男・信政が、松代藩第2代藩主となりました。
そして沼田領は、死んだ長男・信吉の子の信利が継承へ。
えっと・・・
真田信之の立場からすると、
次男の信政が、松代藩第2代藩主で、
長男の子供の信利(孫)が、分領である沼田領を治めたのね。
2年後の1568年、松代藩第2代藩主の次男・信政が死去。
すると信之は、次男・信政の6男で、わずか2歳の幸道を、松代藩第3代藩主にさせ自分が後見人となりました。
なんか、ややこしいな。
順番だと、長男の息子が引き継ぐんじゃない?
でも継承させたのは次男の息子、しかも6男で2歳。
これは信之が、お家存続のため、考え抜いた人選だったのかな!?
ちょっと待った~!!
この人事に猛反発したのが、信之の長男・信吉の子である信利(信之の孫)!
『何で真田氏嫡流が、次男の系統に移ってしまうんだよ!ふつう長男の系統だろ!』
こうして、お家騒動に発展してしまうのです。
あらら~
戦国時代の真田家と言えば、
父の昌幸、長男の信之、次男の幸村が一致団結して、外敵と戦っていたよね。
だからこそ、徳川には2度も勝利できた。
でも江戸時代は、もう泰平の世で真田家は安泰。
周りに敵がいない分、真田一族内部抗争が勃発かぁ。
皮肉だね。
最終的には、信之のプラン通り、次男・信政の6男が松代藩を10万石で相続しました。
代わりに、この人事にイチャモンつけてきた長男の信吉の息子・信利が治めていた沼田領は、
①幕命で正式に沼田藩3万石とすること
②信利が初代沼田藩主をとなること
これで決着しました!
しかし!
信利は、真田家嫡流・本家となった松代藩へのライバル心がまだ消えません!
信利は、その対抗意識から、検地を行い、本当は表高3万石にもかかわらず、松代藩より多い14万4千石(実質は6万石余!)として幕府に報告。
幕府への申告が多くなれば、それに見合った年貢を治めなきゃいけなので、そのツケは全部領民へ。
結果、領民は、重い年貢に苦しめられてしまいます。
松代藩への、ライバル心は分かるけどさ。
トップの見栄っ張りのツケを、領民に押し付けるとは・・・。
信利は、さらに対抗意識から、江戸にある藩邸も、松代藩邸に負けないほど豪華な造りに改装します。
またまた見栄の代償は領民へ。
だからさ~、そこ競いあってどうするの~。
変なプライドや嫉妬で、立場ある人が身勝手な事しちゃダメだって。
こうして・・・
このような暴政が続き、不満を募らせた沼田藩の領民は、1681年、ついに幕府へ藩主信利の暴君ぶりを幕府へ直訴してしまったのです。
結果、幕府の命で、
沼田藩は治世不良で改易!!
沼田城は破却され、堀も埋められましたとさ。
曾祖父の真田昌幸が、必死に守ってきた沼田領!沼田城!
ひ孫の暴君のせいで、はい!ボッシュート~!
昌幸さん、きっと天国で泣いてるね。
ウォ~~!!
沼田のために戦った俺の苦労は何だったんだ!
昌幸さんの苦労、ひ孫には全く伝わってなかったね。
家紋の六文銭の意味も知らなかったかもww
もともと名胡桃城は、近くの沼田城を攻略・監視する目的で築いた城です。
【名胡桃城址から沼田城方面への眺め】
そのため、小田原征伐が終わり、沼田領全部が真田の所領になると、廃城になりました。
実際に使用されたのは10年だけだったそうです。
そして江戸時代、泰平の世となり、信之の息子たちや孫の代になれば、名胡桃城事件なんて遠い昔話の出来事になってしまった。
戦国時代、領地や一族のため、真田が一致団結して戦った苦労の証として、
名胡桃城は、残しておいた方が良かったんじゃないかなww
そして沼田藩は、最後はまさかのお家騒動!暴君のせいであっけなく改易!
内部抗争のせいで崩壊したのは切ないけど、でも、真田家自体はその後も続き、明治以降は伯爵にもなりました。
だから、
真田昌幸の命をかけた沼田領奪取の戦いの数々、そしてお家存続の為『犬伏の別れ』の決断こそ、真田氏子孫の素晴らしい繁栄の礎となったのですね☆
じゃあまた(^_-)-☆