戦国カフェ 〜OLが戦国武将をゆる〜く語るブログ〜

プロフィール

名前:戦国アイコ 
戦国武将とカフェが大好きな会社員

  • 特徴:残業は嫌い。仕事の後カフェでまったりするのが大好き。
  • 趣味:猫と遊ぶこと。推理小説を読むこと。
  • モットー:ほどよく頑張る。
  • 好きな食べ物:スウィーツ(特にクリームあんみつ)
  • 嫌いな食べ物:梅干し、納豆。

信州紀行(2)400年余の時を超えて現存する日本最古の五重天守!石川数正ゆかりの城☆国宝松本城に行ってきた(^^)/

2022/04/13

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こんにちは!
先日、木曽義仲挙兵の地へ行き、義仲役の青木崇高さんに遭遇してから、大の義仲のファン!になったアイコですww

先週の大河ドラマでは、木曽義仲がいよいよ挙兵!
そして倶利伽羅峠の戦いの勢いでそのまま京に入り、平氏はついに都落ちしましたね!

木曽義仲の有名な戦い、倶利伽羅峠の戦いは、
まさかのナレーションで終わりでした(T_T)

義仲が、武人としての才能を発揮し一番輝いたのは、1180年に挙兵してから1183年6月に入京するまでの戦いなので、

木曽義仲ファンとしては、ここら辺の戦いのこと、もう少し詳しくやって欲しかったのですが、
主人公じゃないから仕方ないか ( ̄▽ ̄;)


【木曾義仲像(徳音寺所蔵)】

田舎育ちで、側近に、都の情勢に詳しい文官がいなかった義仲。
ここからは、後白河法皇、頼朝の策略・謀略を駆使した政治力に翻弄されていくよー。泣。

タイミング悪く、飢饉も重なり、京の都は略奪が横行し飢餓で苦しむ人々も増え、荒れて治安が悪くなってしまいます。
義仲が邪魔になった後白河法皇から平家追討の命を受け、備中で戦うも、山育ちの義仲は水軍に大苦戦をしてしまう。

そうしてる間に、義経が挙兵!

急いで都に戻ると、命令違反だと謀反の疑いをかけれてしまい、追い詰められていく義仲。

く~~悔しい!!
木曾義仲役の青木さんの焦り、戸惑いの表情、切なかったですよね。


そして人質の超イケメンの息子の義高は、どうなっちゃうの~?

あと、佐藤浩一さん演じる上総広常も、
そろそろ粛清されそう~((+_+))

少し前の回では、上総広常が字の練習をしていて・・・、これは粛清までの伏線か⁉

木曽義仲や上総広常のような、質実剛健で性格が真っすぐな武人が、謀略家の頼朝や、後白河法皇に上手く使われ陥れられてしまう様子は、悲しいですね。

今週も、木曽義仲から目が離せません!みんなで最後まで応援しましょ(^^)/

松本城 現存する日本最古の五層天守

さて今回は、信州旅行の続き、今日は松本城へ行ったお話です💖

上田市を後にして、次に向かったのは 松本市にある国宝 松本城!
その日は曇りで、小雨がパラつく肌寒いお天気でした。

日本には、現存する天守閣が12か所あり、そのうちの5つが国宝に指定されています。
姫路城、犬山城、彦根城、松江城、そして松本城です。

松本城は五層六階ですが、五層の天守閣はめずらしく、松本城と姫路城のみだそうですよ。
そして最も古いのは松本城なんですね。

室町時代の1504年、信濃の守護 小笠原氏が築城し、当時は深志城(ふかしじょう)と呼ばれていました。

松本城 天守を築造した石川数正

1590年、豊臣秀吉が小田原征伐で北条氏を討ち、徳川家康を関東へ移封させます。

この時、松本(深志)城主の小笠原氏が家康に従って下総へ移ると、秀吉は石川数正を松本城に入城させたのです。
こうして石川数正は10万石を領する松本城主となり、息子の康長と共に、城と城下町の経営に力を尽くしました。

特に康長の時代には、天守をはじめ御殿や太鼓門、黒門、櫓、堀などを築造し、近世城郭としての基礎を固めました。

戦国豆知識 石川数正ってどんな人?

石川数正は、徳川家康より10歳年上の、1533年の三河国生まれ。
家康が今川義元の人質になっていた時代から近侍として仕えた、家康LOVEの人でした。

『長篠合戦図屏風』(成瀬家本)より石川伯耆守康昌(数正)

西三河の家老まで昇りつめ、家康の信任が厚く、『家康の懐刀』と言われていたにもかかわらず、
1585年11月13日、

突如、豊臣秀吉のもとへ出奔!

徳川政権の軍事的機密を知り尽くしていた、石川数正。
この出奔により家康は急遽、機密漏えいに対応するため、従来の軍制を武田流に改めるという対応を取らざるを得なくなるほどでした。

なぜ豊臣秀吉の元へいったんだろう?
諸説あって、未だに明確な理由は分かっていないんだよね。

石川康長むちゃぶり伝説☆太鼓門の鏡石 

まずは、太鼓門から行ってみましょう!

太鼓門は1595年頃築かれ、その名の通り、石垣の上に “ 太鼓櫓 ” が置かれ、櫓の中に太鼓・鐘などがあって、時の合図、火急の合図など、発信源として重要な役割を果たしていました。

これは平成11年に復元されたものです。

そして太鼓門をくぐると、目の前にひときわ目立つ鏡石がありました。
この鏡石は、石川康長が、松本市の東の山辺の石から引かせ、持ってきた石で重さは約22.5トン!!

この鏡石には伝説があって・・・

この巨石、多くの人夫たちによって、運ばれたのですが、
余りの重さに、そのうちの一人が『重たいなぁ~』と愚痴を言ってしまったのです。


すると康長は何と!すぐさまその首を刎ね、落ちた首を槍で差し上げて「者どもさあ引け!」
って叫んで運搬させたんだとか。怖いねぇ。

詳しい伝説はこちら↓ ↓ ↓ ↓

https://www.matsumoto-castle.jp/legend/476.html

平面復元の二の丸御殿跡へ

さて、次は二の丸御殿跡へ。

この二の丸御殿跡は、京保十二年(1927年)に本丸御殿焼失後、藩の政庁が二の丸御殿に移され、
幕末まで中枢機関とされました。今は平面で復元されています。

この絵図を見ると、当時の色々なお部屋があったんだなぁって、楽しい妄想が膨らみました♪

黒門を通り本丸御殿跡へ

次は、本丸に入る正門の黒門へ。ここからは有料だよー☆

門の真下には、松本藩歴代藩主、六家の紹介がありました。
ちなみに七代藩主の、松平直政は、アイコが最近特集してる結城秀康さんの三男だよ☆

門をくぐると・・・わぁ、素敵な庭園が広がりますね!!

この広い庭園部分は、本丸御殿跡になります。
城主の居所と政庁を兼ねた、政治の中枢部だったんだって。でも、享保十二年(1727年)に焼けてしまし、以後再建はされず、このようなお庭になっているんですね。

天守・櫓はこんな配置になってます。

【松本城HPより】

黒い漆塗りの漆喰と、白い漆喰の、黒と白のコントラストがとっても綺麗でした。

松本城 いざ登城!

城内には、火縄銃とか火薬作りの道具とか、甲冑とか様々な展示資料がありました。

城内の見どころ、詳しくはこちら↓ ↓ ↓ ↓

https://www.matsumoto-castle.jp/about/tower/daitenshu

中でもアイコが驚いたのは、狭くて急な階段です!!

現存するお城って、こんなにも階段が急だったんですね。っていうか、これ常識ですか?(^_^;)
実は、アイコは知らなかったのです~(^_^;)

次から次へ、急な階段、階段、階段の連続!
人も多くて、城内、階段付近は混みこみ状態!!

ここで転んだら大変!なので、一生懸命手すりを掴みながら、登りました。

これは、4階の床と天井の4メートル弱の間をつなぐ、松本城では最も急な61度の階段。
↓ ↓ ↓ ↓

松本城 最も急な階段

そして、

この急傾斜の階段を上っている時に、悲劇が起きました!!

ビリリッ!!

履いてたスカートが、破れた!!(T_T)
ショック!!

そのスカートがこれ ( ;∀;)↓ ↓ ↓ ↓

歩幅広げて一生懸命に登ってたら・・・前のスリット部分が裂けちゃった。。
松本城の登城にロングタイトスカートなんて、アホだな~私

反省ww

階段付近には、この写真のようなスタッフさんが沢山いて、
『足元お気をつけください~。階段が急なのでご注意ください~』ってひっきりなしに声掛けしてました。

スカートは破れたけど、とりあえず転ばないで良かった♪(前向き)(^^)/

教訓:お城巡りはパンツスタイルで、滑らない靴下で行きましょう!

石川数正・康長親子のその後

1585年、長年勤めた徳川家を去り、豊臣秀吉の元に転職した石川数正。
1590年には、松本城主10万石を与えられ、権威と実戦に備えた雄大な城と、城下町の建設に尽力しました。

『こんなに好待遇を受けられて、豊臣に来たのは間違いじゃなかった!』
きっと数正は、こう思っていたんじゃないかな。

1593年 石川数正、死去。
その後1598年には豊臣秀吉が死去し、1600年の関ヶ原の戦いでは、徳川家康率いる東軍が勝利、
自分が去った徳川家が、豊臣家を潰して天下を取っていく訳ですね。

徳川が天下を取る前の、豊臣が一番いい時期に死ねたのは、
ある意味、数正本人としては、幸せだったんじゃないかな。

だけど息子の康長は苦労したね~。
徳川にとっては、『出奔し、裏切った石川数正の息子』だもん。

1613年、石川家、改易!!(T_T)/

理由は、諸説あるけど、まぁ、徳川幕府を裏切った因縁の外様大名!だからでしょう。

ちなみに、石川数正の出奔のお陰で台頭したのが、当時外様だった井伊直政。
その後、譜代大名としての地位を確立、家康の絶対的な信頼を得て、幕末まで14代にわたり徳川幕府を支えました。

徳川を出た石川家と、そのお陰で徳川で必要とされた井伊家。
その後の運命は、天と地ほどの差になってしまった!


まさに戦国時代、ついてゆく主君を間違えると大変ね。

信州紀行☆終わりに

築城から400年の時を超え、風雪に耐えて現存する国宝・松本城。
最後に、天守閣保存に尽力した功労者のお二人をご紹介します。

市川量造さんは、明治以降、天守が取り壊しの危機にあり、競売にかけられてしまった際、
天守の博覧会を行い、儲けたお金で買い戻しました。


【市川量造・松本城HPより】

その後、小林有也さんは、天守閣の保存会を設立し募金を集め、天守閣の修理・修繕に努めました。


【小林有也・松本城HPより】

こうして、取り壊しの危機を乗り越え、保存維持されている松本城

私達が観光で、この素晴らしいお城を訪れ、歴史に触れ感動したり楽しんだり出来るのは、
このお二人をはじめとする、市民の方々のお陰なんですね♪感謝(^^)/

じゃあまた来週ね(^_-)-☆💖

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