戦国カフェ 〜OLが戦国武将をゆる〜く語るブログ〜

プロフィール

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戦国ちゃんがゆく⭐上杉謙信が10年かけても落とせなかった!?佐野市 唐沢山城!

2021/08/25

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こんにちは☆ 戦国LOVE のアイコです💖
今回は、関東七名城の一つ、栃木県佐野市にある唐沢山城(からさわやま じょう)に行ってきましたー!

【唐沢山城 本丸跡の石垣】

唐沢山城とは、

佐野市街地の北方約5キロメートルの唐沢山(247メートル)山頂を本丸として一帯に曲輪が配された連郭式山城である。戦国時代において、佐野氏第15代当主・佐野昌綱による唐沢山城の戦いで有名で、上杉謙信の10度にわたる攻城を受けたが、度々撃退して謙信を悩ませた。関東地方の古城には珍しく高い石垣が築かれているのが特徴である。続日本100名城に選ばれた。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

この “ 唐沢山城の戦い ” では、戦国の大大名の上杉謙信が、弱小大名の佐野昌綱相手に、10年間で10回も戦ったんだって!これは、ライバルの武田信玄との激闘 “ 川中島の戦い ” の回数より多いのです

上杉謙信と言えば、合戦の天才!戦国最強の武将!

【上杉謙信像(上杉神社蔵)】

戦国のスター上杉謙信が、なぜ佐野の唐沢山城にこだわり、はるばる越後(新潟)から険しい三国峠を通り10回も攻めて来たのでしょう? 
今日は、戦国のスター 上杉謙信とマイナー武将の佐野昌綱の “ 世にも不思議な戦い ” についてお伝えします。

当時、上杉謙信は、室町幕府が設置した役職・関東管領(かんとうかんれい)として、関東地方全体の統治を任されていました。謙信様にとって唐沢山城(佐野)は、関東における勢力圏の東端で、関東出兵する際に確実に押さえておくべき重要な拠点だったのです。

【 本丸へ続く橋( 四つ目堀 )】

一方で関東では、相模(神奈川)の北条氏康が勢力を拡大していました。

地理的に、上杉謙信と北条氏康という二大勢力に挟まれ、非常に苦しい立場の佐野昌綱💦
現代のサラリーマン社会にもよくありがちな構図ですよね。

けれど昌綱は、御家の存続と領民を守るため、武勇と知略で戦国時代の荒波を乗り超えていくのです

【 佐野昌綱像(大庵寺蔵) 】

唐沢山城の戦い

■永禄3年2月の戦い(1回目)

1560年2月、当時、上杉謙信へ従っていた佐野昌綱に対し、北条氏康の子、氏政は3万の大軍で唐沢山城を包囲してきました。
でも佐野昌綱は、徹底抗戦します。唐沢山城の鉄壁な防御が功を奏します。そうしている間、謙信様が援軍に来て、見事、北条軍の撃退に成功しました!

ちなみに、10回に及ぶ唐沢山城の戦いの中で、これが唯一、昌綱と謙信様が手を組んで北条軍と戦った戦いです。

■永禄4年12月の戦い(2回目)

1561年3月、勢いにのった謙信様は昌綱を従え、北条氏の居城である小田原城を包囲しました。
今度は北条氏、大ピンチ!!

【 小田原城 】

けれど巨大要塞、小田原城。上杉軍は城をなかなか攻め落とせず、途中で越後へ引き上げてしまいました。

なぜ引き上げたかというと、
実はこの時期、謙信様は、川中島での武田信玄との戦いもしていたの。

佐野での戦いと川中島での戦い。さすがの謙信様も、これはキツイよね~。

そして、上杉軍が去ると・・・北条軍は反撃を開始してまた唐沢山城へ攻撃!

謙信様は援軍を送る余裕が無く、昌綱は孤立してしまい、北条軍に降伏。

謙信様は、この北条側への降伏を“ 反逆 ” とみなし激怒!また唐沢山城を攻撃!

しかし唐沢山城は難攻不落の山城。
攻略に手を焼いてるうちに冬が到来。謙信様は兵を引いてへ越後に帰ってしまいます。

謙信さん、冬が来ると雪で三国峠を越えられないから、その前に帰っちゃうのよねぇ~。

まるで、仕事残ってるのに、急いで終電で帰らなきゃいけないサラリーマンみたい。

こんな感じで、上杉謙信と佐野昌綱の戦いはダラダラと続きます💦 スピードアップして説明するよ―。

上杉謙信 VS 佐野昌綱

■永禄5年3月の戦い(3回目)

1562年3月 謙信様が唐沢山城を攻撃するが攻め切れず、しかも地元で反乱が起きて慌てて帰ります。 
※越中(富山)で富山城主、神保長職が起こした反乱制圧の為。

■永禄6年4月の戦い(4回目)

謙信様が関東を留守にしている間、他の関東の多くの城、北条側に寝返ってしまった。
これに怒った謙信様は、これらの城を片っ端から攻撃し降伏・開城させることに成功!

さすが謙信様!毘沙門天の生まれ変わり。軍神のような強さですね。
そして唐沢山城の昌綱も、ついに降伏・開城となりました!

【 本丸へ続く階段 】

【 本丸へ続く階段 】

■永禄7年2月の戦い(5回目)

けれど1564年2月、謙信様が佐野を去ると、いつものように北条軍が攻めて来て、昌綱は離反。
で、また懲りない上杉軍は再び唐沢山城を攻撃。お約束のように昌綱さんはまた降伏。

このくだり、前にも見たけどデジャブでしょうか・・・・。

そしてまた、上杉軍が越後へ帰ると、北条軍が攻めてきて、昌綱は離反。
で、また上杉軍に攻撃されて、降伏するという、またもお約束のリアクション!

こんなお約束のやり取りが、あと数回続きます。
昌綱は、このような綱渡り戦術で御家を存続するのでした。

謙信様相手に、昌綱さんやりますね!

このお決まりパターン、なんかもうコントじゃないw?

多分、謙信様と昌綱って、こんなボケツッコミしてたのかも。

↓ ↓ ↓ ↓ ↓

謙信『もう二度と歯向かうなよ。わかったな!』

昌綱『もちろんです!』

でも・・・謙信様が去るとすぐ北条氏へ寝返り・・・

謙信『おーい! また裏切るんかぁ~い~!!
『いいかげんにしろっ!』

これって戦国最強のコンビ芸⁉ ダチョウ倶楽部もビックリだねww

それにしても謙信様・・・
決着のつかない唐沢山城の戦い、の合間に武田信玄との川中島の戦い、越中の富山城主の反乱鎮圧などで、
何千何万?の兵を引き連れて指揮をとって数百キロを行ったり来たり。

雪の中で険しい峠を越える日もあって・・・さすがに疲れますねー。

そんな中、謙信様は、佐野昌綱が5回?も裏切ったにも関わらず、昌綱を殺さなかったんですよね。

謙信様、どんだけ優しいの・・・・。
信長様なら、1回目の裏切りで打ち首
間違いなし💦

そんな謙信様も、ある時さすがにブチ切れて、昌綱殺すぞ~!ってヤバい時があったらしい。
でも常陸(茨城)の佐竹義昭と下野(栃木)の宇都宮広綱からの助命嘆願を受け入れて、許してあげたそうな。

実はこれも昌綱さん、謙信様の心情を察知して、佐竹さんと宇都宮さんに
『自分が危なくなったら、嘆願書を出して欲しい!お願い!』って前もって手をまわしていたのだとか・・・。

すっかり謙信マニアになった昌綱さん、相手の心を読んでるねー。
もしかすると・・・誰よりも好敵手?謙信様の心の中を理解していたのかも。

【 本丸跡にある唐沢山神社 】

そして最後、この唐沢山の戦いはどんな結末を迎えたかというと・・・

1570年1月、再び裏切った昌綱を従わせるため、謙信様は唐沢山城に侵攻しました。しかし真冬の時期の攻城はさすがに不可能だったので、やっぱり上杉軍は越後に帰ってしまうのでした。(完)

戦国時代、多くの戦国大名が滅亡していく中、佐野昌綱が佐野氏という家を守ることが出来たのは、唐沢山城の堅固さのお陰と、昌綱の知略によるものですね!

佐野昌綱、もうちょっとメジャーになってもいいのにね。

きっと佐野市民には、ほとんど知られてないよ・・・

【 唐沢山城でくつろぐ猫ちゃん達 】

さて次回は、この唐沢山城の石垣について詳しくお伝えします。

この高石垣、実は、関東では珍しい “ 鏡積み ” と言う積み方をしてるんですよ!!

石垣ファン必見!お楽しみに!!

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