戦国カフェ 〜OLが戦国武将をゆる〜く語るブログ〜

プロフィール

名前:戦国アイコ 
戦国武将とカフェが大好きな会社員

  • 特徴:残業は嫌い。仕事の後カフェでまったりするのが大好き。
  • 趣味:猫と遊ぶこと。推理小説を読むこと。
  • モットー:ほどよく頑張る。
  • 好きな食べ物:スウィーツ(特にクリームあんみつ)
  • 嫌いな食べ物:梅干し、納豆。

戦国ちゃんがゆく💖関東地方では貴重⁉ 唐沢山城の石垣・鏡積み!

2021/09/01

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こんにちは☆戦国LOVEのアイコです!
今回は、栃木県佐野市 唐沢山城の “ 関東では珍しい石垣 ” のお話です。

ってことで・・・
全国の1万人の石垣ファンの皆さん、お待たせしました!

石垣ファンのアイコが贈る、
石垣ってこんなに素晴らしかったの~⁉ 』
いやぁ~、石垣でご飯が10杯いけます~!! 』って、きっと言いたくなるような話(笑)

今日は、石垣を熱く語りますので、 最後まで頑張ってついてきてくださいね!!

そもそも石垣とは何か?
それは、様々な種類の石を積み上げて作られた壁や柵のことで、戦国時代、城を敵から守る重要な防御施設としての役割を果たしていました💖

石垣の種類について

石垣には、大きく分けて3種類の加工法があります。

加工法①
石をほとんど加工せず積み上げた、野面積 (のづらずみ)

唐沢山城の高石垣も、これに当てはまります。

【高さ8メール超 唐沢山城の高石垣】

【 自然のままの石を積み上げる 】

この石垣、ただバランスよく積んだだけ。もちろん接着剤などを使ってない!

これで頑丈で耐久性があるなんて、ほんとスゴイ技術。
“ あっぱれ ”をあげちゃう。

加工法②
石をある程度加工して大きさや形を揃えた、打込接(うちこみはぎ)

石材の角や、石と石の接合部分を平らに加工し隙間を少なくした加工法です。
天正期(1573~92年)後半から広く導入されました。

【 熊本城天守 石垣 】

加工法③
石を徹底的に整形して隙間なく積む、切込接(きりこみはぎ)

元和期(1615年~24年)以降の石垣によく見られます。
戦国期も終わり、石垣は防御用というよりデザイン性を重視。もはやアートの世界✨⁉

【 江戸城の石垣 】

【 金沢城の石垣 】

さてまた話は、唐沢山城の石垣へ。

唐沢山城の石垣 貴重な理由

理由その① 高度な技法、鏡積み

唐沢山城は、自然の石をそのまま使う野面積(のづらづみ)でありながら、
さらに全国でもほとんど聞かない高度な工法鏡積み(かがみづみ)の技術も使っています。

鏡積みとは何か?
それは『形や大きさが異なる石を、その石の最大面を表面にしながら隙間なく積み上げる高度な技法』なんだって。

ちなみに、昨年から佐野市では崩落防止のための修復工事に合わせ、詳細な調査も同時に行われていて、
当時の石工による最高技術の解明を進めているそうです!どんな新しい発見があるのか、楽しみですね!

【調査対象☆本丸西に隣接する石垣】

理由その② 関東地方は『土の城』が多く『石垣の城』は圧倒的に少ない!

通説では、東日本は土の城/西日本は石垣の城が多いと言われています。
その理由は、石垣の城は西日本で発達し、おもに豊臣秀吉のもとで築造技術を磨いた西国の大名によって造られていたからなんです。

もう少しさかのぼると・・・
1571年、織田信長は比叡山延暦寺を焼き討ちした際、荒々しく積まれただけに見えた古い石垣が、激しい戦闘や火災に耐え、破壊しようにも崩れないことに驚いたそうなw

【 比叡山延暦寺 大講堂 】

【 比叡山延暦寺西塔 石垣 】

そしてその石垣の堅牢さを気に入り、石垣施工を行った技術者集団で滋賀県琵琶湖西岸の穴太(あのう・あのお)に住んでいた石工職たちを集め、安土城を築城しました。

この石工プロ集団を穴太衆(あのうしゅう)と呼びまーす。

この穴太衆たち、石を加工せず自然な状態のまま積み上げる『野面積』を得意とし、
その技術は『石の声を聞き、石の行きたいところに行かせてやる』だけなんだとか。

カッコイイねーー!! 凡人には分からないけど、こんな感じで石の声が聞こえてくるのかな・・・

そうやって、この穴太衆が完成させた総石垣の城、安土城は、武将達に大評判となりました!
(※1582年本能寺の変後まもなくして焼失し、その後廃城となり、現在は石垣などの一部の遺構を残すのみ)

【 安土城 大手口石段 】

信長様亡き後、穴太衆は秀吉様と諸大名の間で引っ張りだこの人気となり、城づくりで重用され、西日本を中心に発展していったという訳なのです。

戦国の石垣といえば穴太衆なんですね!

ここで最初のミステリー!
そんな西日本でブームの石垣、なぜ栃木の唐沢山にあるの?

本当に謎ですね。
皆さん スーパーひとし君 をかけて謎を解いてくださいw

唐沢山城主 佐野氏と豊臣秀吉の関係

前回登場した、佐野昌綱は1574年に、上杉謙信は1578年に死去。
その後昌綱の息子、宗綱が後を継ぐも、1585年、宗綱は戦で討ち死にしてしまいます。

その後佐野家の中では、今後の方針について意見が二分! 

昌綱の弟(宗綱の叔父)である房綱(ふさつな)は、御家安泰のためには常陸の国(現:茨城県)佐竹氏から養子を迎えるべきと主張して佐竹派を形成。
一方で、北条氏康の子の北条氏忠を養子として迎え入れるべきと主張する北条派も起こり・・・

佐野家では、派閥争いが起きてしまいました。北条派か、佐竹派か?

結局、北条派が勝ち、北条氏から養子を受け入れ事実上、佐野家は北条氏に支配されてしまうのでした。
しかし、これに反発した反北条派の房綱(ふさつな)は、佐野家を出て、秀吉様に仕えるという行動にでたのです

そして1590年 小田原征伐で北条氏が敗れ、北条氏と共に失領した佐野家は一旦御家断絶。

でも反北条派だった房綱は、既に豊臣秀吉に仕えており、小田原征伐でも功を挙げたため、房綱の元に佐野氏は再興されたのでした!めでたし!めでたし!!

このように・・・佐野房綱は秀吉様としっかりパイプを作っていったのです。

さらに1592年、秀吉の家臣の子供、富田信種(佐野信吉)が、佐野房綱の養子になりました。

で、やっと石垣の話に戻るけれど・・・

秀吉様の家臣の子供(信吉)を養子に迎えた事で、その人脈により、1592年以降、

秀吉様お抱えの穴太衆が、秀吉様が作った多くの城に見られる当時の最新技術「鏡積み」の工法で、唐沢山城の石垣を整備したと考えられているのです。

いつの時代も人脈って大切ですよね。これも中央政権の秀吉様とのパイプがあってこそ。

今の時代なら・・・
有力な国会議員に頼んで、家の前に立派な道路を作ってもらうような感じですかね~、笑

唐沢山城の石垣の謎が解けましたね!
それは、中央政権の秀吉様との人脈によって出来た、当時最新技術の石垣だったのです
この石垣は、佐野氏が戦国の乱世を生き抜いた、まさに証!と言っても過言ではありません。

最後に、アイコが好きな石垣のギャラリーがあるので見てくださいね!!

さて次回は・・・佐野氏がどのような結末を迎えるのか?まとめ編です。

上杉謙信を手こずらせ、北条、豊臣政権という激動の世を生き延びた佐野家。

関ヶ原の戦い後、徳川という巨大政権を前に、どのような末路をたどったのか?
涙なしには語れないお話
💦 次回もお楽しみに~☆

日本の城 石垣ギャラリー

今日は、全国の素敵な石垣をご覧いただきならがら、お別れですー✨

【 浜松城 天守台石垣/野面積 】

【 丸亀城 高石垣 / 打込接 】

【 姫路城を見上げて 】

【 姫路城 ハートの石💖 分かる?】

【 横須賀城 /天竜川の石を使用 】

【 福知山城/よく見ると 墓石が!】

色んな石垣がありますね💖
たくさんの石垣でお腹一杯になったので、ちょっとひと休み。じゃあまた来週☆

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