
プロフィール
名前:戦国アイコ
戦国武将とカフェが大好きな20代独身会社員
- 特徴:残業は嫌い。仕事の後カフェでまったりするのが大好き。
- 趣味:猫と遊ぶこと。推理小説を読むこと。
- モットー:ほどよく頑張る。
- 好きな食べ物:スウィーツ(特にクリームあんみつ)
- 嫌いな食べ物:梅干し、納豆。
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名前:戦国アイコ
戦国武将とカフェが大好きな20代独身会社員
こんにちは💖戦国LOVEのアイコです!
今日は、ズバリ!石田三成ファン必見のお話ですw
前回、小早川秀秋さんに悪く言われイメージが下がってしまったので💦
バランスを考え今回は、関ヶ原敗戦後の石田さんのカッコいいエピソード、お伝えします。
関ヶ原で敗戦後、石田三成は、自身の領地である近江国古橋村に何とかたどり着きました。
腹痛を起こしていて、歩くのもやっとの状態・・・
そこでは『与次郎』という百姓が石田さんをかくまい、山中の岩窟に身を隠させたのです。
実はこの時、東軍を代表して石田さんの捜索に当たっていた田中吉政は、近辺の村々に対し、
● 石田三成を生け捕りにした場合、その村の年貢を永久に免除する
● 生け捕りにせず殺した場合は、その者に賞金百両を与える
● かくまった者は、その当事者だけでなく親族および村人全員に至るまで処刑する
とお触れを出してました。
そこまで恩賞が出たら、普通は石田さんタダじゃ済まないよね💧
でもこの与次郎、恩賞には目もくれず、石田さんをかくまったのです!
それも、お咎めの責任を自分一人で引き受ける覚悟で妻を離縁、死を覚悟で三成を介抱したんだって!
マジか~⁉偉すぎる!優しすぎる炭次郎じゃなく与次郎でしたねw
普通ここまで出来ないよ~
なぜここまでしたかと言うと、
かつて古橋村が飢饉に襲われた際、石田さんが村人たちを救うため米百石を分け与えたことがあって、
与次郎は、そのことに深く恩義を感じていたからだとか。
だけど、このままここにいては与次郎に迷惑をかけてしまう。
石田さんは与次郎に対し「追っ手が来たら自分の居所を伝えてくれ」と頼み、出ていきました。
これは与次郎が石田さんの味方をしたことを伏せ、咎めを受けないための石田さんの心遣いだったのです。
そして9月21日、古橋山中の洞窟に隠れていた石田さんは、田中吉政の家臣によって捕縛されてしまいました。
⭐エピソードその1
捕縛された石田三成と面会した家康様が、声をかけました。
「戦は時の運であり、昔からどんな名将でも負けることはある。恥ではない」
石田さんは、少しも臆することなく答えました。
「ただ天運が味方しなかっただけのこと。さっさと首をはねよ」
すると家康様、
「三成はさすがに大将の器量である。(命乞いをした)平宗盛とは大いに異なることよ」と褒めたのだとか。
⭐エピソードその2
家康様は、処刑前の石田三成の服が破けていることに気づき、
「将たるものに恥辱を与える行為は、自分の恥である」と、小袖を送り届けました。
石田さんは小袖を見て「誰からのものか?」と聞き、
「江戸の上様からだ」と言われると、「上様?それは誰のことだ⁉」と聞き返しました。
「徳川殿にきまっているだろ」と言われると「なぜ徳川殿を尊ぶ必要があるのか」と礼も言わずあざけり笑い、
「上様と言えば、豊臣秀頼公より他にいない。いつから徳川殿が上様になったのか?」と言い放ったとか。
ホント、石田さんらしい。まさに、豊臣ファーストを貫き通した人ですね。
⭐エピソードその3
刑場に引かれていく石田三成(石田三成公事蹟顕彰会蔵)
京都の町を引廻されている最中、水が飲みたくなった石田三成。
警護の人に水が欲しいと伝えたけれど、あいにく水が無かったので、代わりに干柿を差出されました。
すると石田さん「干柿は、痰の毒であるから食べない」と言って断ったんだって。
警護の人は「間もなく首を刎ねられる者が、毒を断つのはおかしい」と笑ったんだけど、
石田さんは「そなた達小物には分からないだろうが、大義を思う者は、首をはねられる瞬間まで命を大事にするものだ。それは何とかして本望を達したいと思うからだ」と答えたそうです。
喉が渇いて干し柿出す方もどうかと思うけど。柿みずみずしくないし💧
でも、石田さんの返しも物凄い!!上から目線の大物発言!
あれ?この話、石田さんのイメージアップには逆効果⁉
そして関ヶ原から2週間後10月1日、石田三成は京都の六条河原で処刑されました。享年41歳。
辞世の句は、
筑摩江や 芦間に灯す かがり火と ともに消えゆく 我が身なりけり
ちなみに「関ヶ原の戦場で自害せず、なぜ逃亡したのか?」と問われた石田さんははこう答えたそうです。
「私はまだ再起するつもりだった」と。
※薩摩の島津義久と連携して九州からの巻き返しを図っていた説あり。
逃げたんじゃない!あきらめたんじゃない!
ボロボロになりながらも、まだ、再起の希望を捨てていなかったのね、泣。
一方9月18日、小早川秀秋、脇坂安治らの武将を中心とした東軍は、石田さんの居城・佐和山城を攻撃し落城。
城内にいた父兄、正室は自害しました。
そして東軍が
『豊臣政権で繁栄を極めたあの石田三成だから、さぞかし城内は豪勢で金銀財宝を貯蓄しているだろう』
って期待して城内に入ってみたら・・・。
内部の質素さに驚いた!!
壁は板張りで上塗りされずむき出しのまま、庭には風情のある植木もなく、手水鉢は粗末な石。
そして全く貯蓄はなかったのです!!
石田さんはよく
「奉公人は主君より授かる物を遣いきって残すべからず。残すは盗なり。遣い過ぎて借銭するは愚人なり」
と語っていたんだって。
関ヶ原の戦いのために、全財産をかけて挑んでいたのかもしれないね。
佐和山城が落城した時、石田三成の父兄、正室は自害して石田一族は滅亡??
と思ったら、実はそうではないのですー!
石田さんの子供たち、3男3女は、全員が連座せず生き延びました!
家康様、石田さんは斬首にしたけど、子孫には比較的寛容だったんですね。
実は家康様、石田さんのことをそこまで嫌っていなかった??
長男は家康様に助命され出家し、104歳まで生きました。
他にも、
石田さんは津軽家(青森県弘前市 弘前城城主)と仲良しだったため、息子と娘を一人ずつ保護してもらったり。
特に次女の小石殿は、蒲生家の家臣・岡重政の正室となり、息子の岡吉右衛門を産み、
この岡吉右衛門の娘が『 お振の方 』で、石田さんのひ孫となります。
そして『お振の方』はなんと、江戸幕府3代将軍 徳川家光の側室になったのです!
つまり・・・石田さんのひ孫と、徳川家康の孫が結婚したって訳よ!
ビックリだよね!
石田三成が用いたと伝わるこのマーク。「大一大万大吉」(だいいち・だいまん・だいきち)
これは『一人が万民のために、万民は一人のために尽くせば、天下の人々は幸福(吉)になれる』という意味。
ラグビーの合言葉 “ One for all , all for one .”(一人はみんなのために、みんな一人のために)みたいですね。
石田さんが理想としたのは、きっとそんなチームワークを大切にした人々の幸せだったのではないでしょうか?
お~い!!
ちょっと待ったー!
チームワーク?人々の幸せ? どの口が言う~?
朝鮮出兵では、小早川秀秋や加藤清正ら武断派の事を悪く言って、亀裂を深めて嫌われた人だよね?
って・・・ツッコミたくなる気持ち、分かります💦
石田さんKYなとこあるんですよ。でも決して悪気はないんです。
そうそう!天然な方なんですねきっと。
一説には、秀吉様が朝鮮出兵を決めた時、石田さんが一番反対し考え直すように進言したとも言われています。
そして文禄の役で、朝鮮との戦いの状況が悪くなる中、どうにか朝鮮出兵を中止させようと、
和平交渉を進めた中心人物こそが石田さんなのです。
太閤殿下じゃなく、自分が矢面に立ち、あえて批判の的になり、
これ以上の日本兵の命を無駄にしたくない!との強い思いがあったのでしょう。
文禄の役『釜山鎮殉節図』
釜山鎮城攻略の様子で左に密集しているのは上陸した日本の軍船。
『歴史とは、勝者が書く勝者の歴史』
死後、徳川幕府に悪評を流され、家康公に盾突いた悪人としてのイメージを作り上げられてしまった石田三成。
確かに、勘違いされやすい不器用な性格ではありました💦
時には自分の理想に反して、秀吉様の側近としての役割を果たすこと、忠義を尽くすことを優先せざるを得ず、
周りから反感を買い誤解されることもあったでしょう。
けれど、真に国の繁栄と人々の幸せを願い、自身の居城は極めて質素。
20万石の一家臣でありながら、250万石の巨大な大名・徳川に戦いを挑んだ果敢な男なのです。
西軍から裏切り者が出たことで人望がないと言われてきたけど、
不器用ながらも実直で、義理堅い面に惹かれた直江兼続・大谷吉継・島左近といった人物が、彼に同心したことからも、その人柄をうかがい知ることができます。
何より、石田さんに人間的魅力がなければ、東軍を上回る8万もの兵を2ヶ月で集められるわけがない。
「大一大万大吉」(だいいち・だいまん・だいきち)
私利私欲を捨て、義と世の幸せを本気で願い行動したからこそ、
いつまでも石田三成という人物は、時を超えて現代の私達をも魅了してやまないのでしょうね✨
さて・・・
今日のお話はこれでおしまい☆
石田派アイコなので、熱が入って ちょっと長くなりました~。まだ物足りないけど・・・
石田愛を語るのは、また別の機会にしますね、笑。
関ヶ原の戦いにまつわるのお話は、一旦終わりにしまーす☆
気づいたら9月15日から一か月経って、寒くなってきたね。
じゃあまた次回、お楽しみに💖