戦国カフェ 〜OLが戦国武将をゆる〜く語るブログ〜

プロフィール

名前:戦国アイコ 
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関東7名城☆宇都宮城ヒストリー💖(2)沼尻の合戦(ぬまじりのかっせん)北条氏 vs 佐竹義重・宇都宮国綱連合軍が激突した戦いとは⁈

2021/11/04

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こんにちは!戦国LOVEのアイコです✨
今回はまず、小田原征伐へと続く重要な戦い、栃木県栃木市での『沼尻の合戦』のお話からスタートするよー⭐

沼尻の合戦 経緯

時は、1582年6月2日、本能寺の変で信長が死去。
相模(神奈川)を支配していた北条氏直は、北関東地域への侵攻を急激に強めていきました。

7月、北条方は織田家重臣の滝川一益を破り、上野(群馬)から信濃(長野)まで勢力を広げることに成功します。

その後、徳川家康の命令により、信濃(長野)からは撤退を余儀なくされましたが、
家康様からは「上野(群馬)は北条の切り取り次第で干渉はしない」とお許しを得たので、

翌1583年、北条氏は北部の真田昌幸領を除いて、群馬をほぼ制することになったのでした!!



これに危機感を覚えたのが、茨城の佐竹義重、栃木の宇都宮国綱ら北関東の諸領主たち。

神奈川の北条のヤツら、グイグイ群馬まで勢力拡大してきて、やべーよ!
もう北条潰すしかねえっぺよ~
 

北条さんごめんね~ごめんね~(By U字工事)

って言ったかどうかは分かりませんがww

※栃木なまりをディスってる訳じゃありません~ アイコも栃木県民なので親しみと敬意をこめて💖

さて前回ご紹介した通り、宇都宮国綱にとって佐竹義重は実母の兄で、血の繋がったおじさんになります。

おじさんと甥っ子がしかっりタッグを組んで、

まずは佐野宗綱(※上杉謙信の10度の攻撃にも負けなかった、佐野昌綱の長男)の力も借り、当時北条方だった群馬県の由良国繁、長尾顕長兄弟の調略に成功しました。

そして、1584年1月、由良長尾兄弟は、北条方である小泉城(群馬県邑楽郡小泉町)を攻撃。
同年4月、北条氏は小泉城の救援に向かいます。

同4月、佐竹義重、宇都宮国綱も宇都宮城を出陣し、1575年頃から北条方である栃木県小山市の小山城の奪回を目指し小山を攻撃。

と序盤は佐竹軍の作戦通りに戦いは展開していきます。

こんな感じで戦線は、群馬、栃木南端部に東西に細長く広がっていきます。
( 関東圏以外の方には、この位置関係は分かりずらいかな? )

この群馬の小泉城近辺と、栃木の小山城近辺の中間で、いよいよ両陣営が激しく激突することとなりました。

その場所こそが、沼尻(現 栃木市藤岡町都賀地域)だったのです!

この時、打倒北条のため一丸となった佐竹方の北関東連合メンバーは、

⭐栃木:宇都宮国綱、佐野宗綱、皆川広照(皆川城城主)
⭐群馬:由良国繁、長尾顕長
⭐茨城:結城晴朝(結城城城主)

などを中心とした、まさに北関東オールスターズ!!

こうして1584年、

北条氏陣営と、佐竹氏を中心とした北関東オールスターズ陣営の間で、
関東を二分する戦いとされた『 沼尻の合戦 』が栃木市の三毳山(みかもやま)の南方で展開されました。


この華々しい合戦!沼尻の合戦跡地!週末、アイコも行ってきましたよ✨

【 沼尻の合戦跡地・三毳山が見える 】

のどかな農村って感じですねぇ~ 💦
ちなみに何の立て看板もありません。住所的にはここら辺のはずですが・・・・ 💦

ちなみに・・・

当時、佐竹義重は37歳、宇都宮国綱は16歳になっていました。
佐竹さん、脂がのってるバリバリのいい年齢ですね!国綱くんも16歳なんて、今でいう高校1年生。
元服して体はしっかり大人体形で、戦いには文句なし状態だったことでしょう。

沼尻の合戦 特徴

この合戦の最大の特徴は、

北関東連合軍が、当時最新兵器である鉄砲を、何と8,000丁以上用意したという点なのです!
(実際に使用したかどうかは、不明)
その数は、3,000丁準備した信長様 VS 武田勝頼のあの『 長篠の戦い 』軽く上回っていますね。

また兵力については、北条方が8万余りに対し、反北条の北関東連合軍の佐竹方は2万余り。

双方とも、5月初旬には沼尻に着陣し陣城を構えましたが、決め手となる大きな戦闘もなく、3ケ月にも及ぶ膠着状態が続きました。

あの北条と佐竹率いる軍勢、約10万が集まってにらみ合い、
佐竹連合軍は、鉄砲を8千丁も準備していたって・・・


この場所、実はスゴイ恐るべし歴史跡じゃないか??
歴史価値ある場所なのに~

栃木市さん、立て看板くらい立てましょうよw

岩船山の戦い そして講和へ

両陣営のにらみ合いが続く中、北条方は、佐竹方の皆川広照らを調略し寝返らせることに成功しました。

皆川氏の領地は、岩船山のすぐ隣の近隣(栃木市)に位置しています。
皆川広照の協力を得た北条方は、北関東連合軍の重要な退路である、岩船山の岩船陣城(現栃木市岩舟地域)を落としてしまったのです(岩船山の戦い)
(ちなみに岩船山と言えば、今は映画やテレビの『爆破』ロケ地で有名ですね)

【 岩船山 Wikipediaより 】

この場所を落とされ、劣勢になった北関東連合軍。
これを契機として両陣営間で講和の動きが進み、8月には講和が成立、両者 “ 引き分け ” としてこの沼尻の合戦は幕を閉じました。

沼尻の合戦 戦後処理は北条氏の優勢に

合戦自体は “ 引き分け ”のはずでした。

がしか~し!!これで手を引く北条方ではありません。

次々と佐竹方の諸領主を寝返らせ北関東に攻め込み、着々と勢力を広げます。

⭐由良長尾両氏は北条氏に攻められ年内に降伏、所領を没収され、群馬の桐生城へ異動。

⭐1586年、佐野宗綱が長尾氏との戦闘で戦死。
後継争いが起こり、最終的に北条氏忠が養子に入ったことで、佐野家は北条の支配下に。

⭐同年、皆川広照は再度北条氏に降伏。栃木の西半分は北条氏の勢力範囲へ。

⭐鹿沼城城主で宇都宮国綱が信頼していた家臣の壬生氏も、北条側に寝返り、
宇都宮のすぐ隣の鹿沼まで北条方の支配下に。

沼尻の合戦。
佐竹方は途中まで作戦通りだったのに、勝てなかった。

結局、これが北条と佐竹連合軍の戦いの “ 潮目 ”となり、その後の北関東の勢力図に影響を与えてしまったのよね。

オセロみたいに、味方をドンドンひっくり返されて・・・
気が付けば、周りを北条方に囲まれてしまった佐竹・宇都宮国綱大ピンチ~!!

けれど、北関東の雄である佐竹義重は、上杉謙信や伊達政宗も恐れた猛将で、佐竹家は清和源氏の流れを組む名家
そして宇都宮家も藤原を祖とする名門。

下剋上でのし上がってきた北条家なんかに、簡単に従う訳にはいかない!両者のプライドが許さない!

そうは言っても・・・今は2アウト満塁の大ピンチ!最後に頼るのはこの人しかいません。

そうです、時の関白豊臣秀吉です。
この窮地を逆転できる人は、この人しかいないですよね。

そこで佐竹・宇都宮国綱は、
沼尻の合戦最中から秀吉様とやり取りし北条の動向を伝え、一刻も早く関東へ出陣するようお願いしていたのです。

しかし1584年3月~11月は、
秀吉陣営と徳川家康・織田信雄陣営の間で『小牧・長久手の戦い』が行われていたため、秀吉様は忙しく、北関東へ出陣する余裕はありませんでした。

でも、もう頼みの綱は秀吉様しかいない!!
諦めずに関東への出陣を頼み続ける佐竹・宇都宮国綱。

しかし『小牧・長久手の戦い』の後も、秀吉様は、家康との講和問題や九州征伐に追われ、
佐竹・国綱の依頼は、再三にわたり断られ続けてしまうのです。

迫りくる北条軍勢、でも頼みの秀吉軍は来る見込みなし。
佐竹さん、国綱くん、どうする?どうなる!?・・・つづく☆

来週もお楽しみに💖

三毳山(みかもやま)を眺めながら

さて、沼尻の合戦跡地へ行った後は、すぐ近くの『道の駅みかも』に寄ってちょっと一息。

昭和の雰囲気漂う、昭和のBGMが流れる落ち着いた場所でしたよ✨(褒めてますw)

沼尻の合戦から400年以上経った今、当時と今とでは、景色は全く違うだろうけど、
この三毳山(みかもやま)だけは当時景色そのままなんだろうなぁ。

ここに集結した武将達、どんな思いで、この三毳山を眺めていたのかな・・・

そんな思いに浸ったアイコでした💖😊

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