戦国カフェ 〜OLが戦国武将をゆる〜く語るブログ〜

プロフィール

名前:戦国アイコ 
戦国武将とカフェが大好きな会社員

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関東7名城☆宇都宮城ヒストリー💖(6)宇都宮国綱が去った後、宇都宮城は誰の手に??こうして釣り天井事件は始まった!

2021/12/05

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こんにちは!戦国LOVEのアイコです💖

前回までの主役 宇都宮家第22代当主の宇都宮国綱。その後、残された宇都宮城は、誰が城主になったんだろう?
ということで今回は、江戸時代の歴代城主たちを紹介していくよー✨

宇都宮城の歴代城主

💖第23代宇都宮城主/浅野長政(1597-1598)

浅野長政:Wikipediaより

国綱追放の後、新たな領主が決まるまでの一時預かりの役割・城代として、宇都宮城に入りました。
長政は、豊臣政権を支えた五奉行のうちの一人で、秀吉様とは自分のお嫁さん同士が姉妹という、親戚関係です。

浅野長政さん、宇都宮家が改易となったきかっけの人ですね💧
ターミネータ芳賀高武が、浅野さんの養子を反対しなければ、その後も宇都宮さんが
城主だったかも。

宇都宮は、豊臣政権下でも重要な拠点だったから、豊臣恩顧の武将を城代としたんですね。

ちなみに秀吉様の命令では、浅野長政の副官として真田昌幸が付けられていて、実際の統治は、長政と昌幸の共同で行われていたそうですよ。

真田昌幸:Wikipediaより

💖第24代城主/蒲生秀行・がもう ひでゆき(1598-1601)

半年間の浅野長政の支配を経て、翌年の1598年、次に城主となったのは会津の当時15歳だった蒲生秀行。

ちょっと知名度が低いかもしれませんが、
この人のお父さんは、信長様や豊臣様に一目置かれたと言われる、あの蒲生氏郷(がもう うじさと)

蒲生氏郷は、数々の戦場で武功を立て、「千利休」の高弟「利休七哲」(りきゅうしちてつ)の一人でもあり、
キリシタン大名としての顔も持ってるんです。

キリシタンと言えば、思い出すのは細川ガラシャさん!ガラシャは洗礼名です。

この蒲生氏郷の洗礼名は、なんと「レオン」
💖
カッコイイ~!戦国の世で「レオン」って!!

孤独な殺し屋が、幼い女の子と心を通じながら、敵と戦いを繰り広げそうな洗礼名ですね!!
って、 蒲生氏郷 は、ジャン・レノかい!ww

蒲生氏郷 :Wikipediaより

秀行は、父の氏郷が40歳で急死すると、秀吉様の命令で、会津若松から宇都宮18万石で移封されてしまいました。

氏郷時代には、91万9300石だったので、いきなり18万って大幅な減封だね~😵

跡を継いだ当時、秀行は、わずか13歳だったから・・・重臣間の争いが勃発したり、91万石もの所領を支配するのは難しかったようで、そこにつけ込まれたようです。

同時に秀吉様は、
越後の上杉景勝を、奥羽の伊達政宗の押さえとして会津に移封させてるんだよね
だから秀行には、会津を空けてもらう必要があったんでしょう~

可哀そう秀行さん。

同年、1598年秀吉様が死去し、1600年には関ヶ原の戦いが勃発。

1601年、東軍の秀行は、関ヶ原の功績により会津に60万石を与えられて見事復帰を果たし、
会津に帰っていったのでした。ラッキー!!

蒲生秀行は、東軍メンバーの中で18万から60万石へと、10番目に加増が多かった武将なんですよ。

💖第25代城主/大河内秀綱(1601-1601)

徳川家の重臣の一人。新たな領主が決まるまでの4か月間にわたって管理しました。

この大河内さん、もともとは、吉良義昭に仕えていた人なんですよね。
吉良義昭は、あの忠臣蔵の吉良上野介の先祖です。

宇都宮って、浅野さんと吉良さんに関係してて・・・忠臣蔵に縁があるなぁ。

💖第26代城主 宇都宮藩の初代藩主/奥平家昌(1601-1614)

関ヶ原後の1601年12月、
家康の重臣で娘婿の奥平信昌の長男、家昌が10万石で宇都宮に入部したことから宇都宮藩が成立しました。

家昌の母は家康の長女の亀姫で、家昌は家康の外孫に当たります。

奥平家昌:Wikipediaより

💖第27代城主/奥平忠昌(1614-1619)

1614年、父の家昌が38歳で病死したことにより、跡を継ぐことに。当時7歳。

しかし、『奥羽への押さえとして重要な宇都宮藩主には、忠昌では幼過ぎる』との理由で、1万石加増されて11万石とされた上で下野古河藩へ移封となりました。

忠昌の祖母、家康の長女 亀姫さんは、とっても孫思いなんですよね。
この強い思いが、のちのち事件の一因に・・・?

💖第28代城主/本多正純・ほんだ まさずみ(1619-1622)

奥平忠昌に代わって宇都宮に入ったのは、下野小山藩3万3000石を領していた本多正純。
15万5000石に大幅加増されての入部でした。

正純の父は、家康様側近の本多正信(ほんだ まさのぶ)で、知恵袋・参謀として初期の徳川政権を支えた重臣です。

お父さんの本多正信の肖像画はこちら。
いかにも 参謀って感じですよね。 何か企んでそうなたたずまい、只者ではないオーラを感じますね。

本多正信:Wikipediaより

偉大な父親を持つ本多正純さん、この先も徳川政権のメインロードを歩んでいけるのか!?

その後宇都宮城は・・・奥平氏、奥平松平氏、本多氏、奥平氏、阿部氏、戸田氏、深溝松平氏、
徳川の譜代大名が、城主としてこまめに入れ替わっていきました。

💖第47代城主・戸田忠友(とだ ただとも)(1865-1871)

戸田 忠友:Wikipediaより

宇都宮藩最後の藩主。宇都宮藩知事となるも、明治4年(1871年)7月15日の廃藩置県で藩知事を免職されました。
以上、駆け足で見てきたけど、この第47代城主でおしまい☆

そして・・・今回アイコが注目するのはこの人、第28代城主の本多正純!

宇都宮城 釣り天井事件

お待たせしました~!
宇都宮城と言えば、有名なのが『宇都宮釣り天井事件!』

えっ!釣り天井?
なんだか気味悪い響きですねぇ・・・

この事件、一言で言えば

江戸時代の元和8年(1622年)、下野国宇都宮藩主で江戸幕府年寄の本多正純が、
宇都宮城に吊り天井を仕掛けて、第2代将軍徳川秀忠の暗殺を謀ったなどの嫌疑をかけられ、
本多家は改易、正純は流罪となった事件

Wikipediaより

来週から、本多正純を中心に渦まく人間関係と、この事件の背景に迫っていくよー

知らない人はもちろん、釣り天井事件を知っている人も、
新たな発見があること間違いなしww

じゃあまた来週ね!お楽しみに💖

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