戦国カフェ 〜OLが戦国武将をゆる〜く語るブログ〜

プロフィール

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関東7名城☆宇都宮城ヒストリー💖(7)釣り天井事件はなぜ起きた⁈『私は絶対やってない!!』本多正純の栄光と転落人生に迫る・前編

2021/12/12

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こんにちは!戦国LOVEのアイコです💖
今回から、宇都宮城の釣り天井事件のお話だよー

この事件の主人公は、徳川家康の側近で老中(江戸幕府の最高職)まで上り詰めた本多正純(ほんだ まさずみ)。
一体なぜ、彼はこの事件に巻き込まれてしまったのでしょう?

父は偉大な本多正信

1565年 本多正純は、本多正信(まさのぶ)の長男として誕生しました。

本多正信は、江戸幕府の老中まで登りつめ、家康と2代将軍・徳川秀忠の側近として、幕政の中枢で権勢を振るった人物で策略家です。

そして家康が最も信頼していた「側近」「盟友」でもあり「家康の知恵袋」とも評されています。
ちなみに大河ドラマ「真田丸」では近藤正臣さんが演じていましたよねww

【 本多正信/Wikipediaより 】

ちなみに、本多家は、家康が「松平」と称していた時代から、代々、鷹匠(たかしょう)として仕えてきた家。
(鷹匠とは、鷹狩りで使用する鷹の調教や、鷹狩りの際にお供する仕事)

正信は家康よりも4歳年上で、幼い頃から仕えていました。

「盟友関係」と言われた徳川家康と本多正信ですが、実は一度敵対関係になったことがあるのです。
それが、1563年の『 三河一向一揆 』。



この三河一向一揆では、徳川家康が、三河の一向宗に対する締め付けを強化したことに反発し、松平家の多くの家臣も一揆に加担、敬虔な一向宗信者だった本多正信も一揆側につきました。

一揆が鎮圧された後は、妻と幼い正純を残し、奈良の松永久秀(まつなが ひさひで)に仕えたり、諸国を流浪したりと、家康の元を離れていました。

しかし正信は、早ければ1570年の姉川の戦いの頃から、遅くとも1582年本能寺の変の少し前頃には許され、
無事に帰参します。※帰参時期には諸説あり

正信さん何気に、7年から19年近くも、家康様の元から離れてたのね!
一度は社長に反発して辞めた、出戻りのブーメラン社員。


裏切りからのマイナススタートだけど、古参の家臣を押しのけ一番の出世を遂げていくよ。
どんだけ優秀だったの~w

正信は、家康の周りの家臣から、「帰り新参」「腰巾着」などと陰口をたたかれ、
家康一筋、家康LOVEを貫いてきた徳川四天王の一人、本多忠勝は「正信の腰抜け」なんて言ってたらしいよ。

確かに、元からいる家臣たちで、特に戦場で命がけで戦う武断派からすれば、
一度徳川を裏切ったくせに、家康様の側で秘書気取り、策略を重ねただけで出世していく文治派の正信の事を、
悪くも言いたくなるか。

~ 戦国まめ知識 ~ 本多忠勝と本多正信って親戚なの?

ちなみに、徳川四天王の本多忠勝と、家康の参謀の本多正信は、兄弟や親子ではありません~

確かに過去を遡ると同じ祖先にたどりつくけど、当人同士は全く親戚と言う認識はなかったようでした。
江戸時代は、本多という大名は13家あり、旗本は45家もあったんだ。本多家多し!!


さて話は戻って・・・

このように、周りから妬まれた正信さんではありましたが、

1582年の本能寺の変の後、家康の人生三大危機の一つの伊賀越えに同行したり、
武田氏旧領を巡る争乱後の武田氏家臣の取り込みに成功したりと、家康の信頼を一心に受け、重臣としての頭角を表し、次々と要職を歴任していきます

【 徳川家康/Wikipediaより 】

そして1584年には、今回の主人公、長男の本多正純(当時19歳)も家康に仕えるようになりました。
正純は、父同様に策略家だったため重用されて、家康はその才能に惚れ込んだと言われているよ!!

1590年 小田原征伐後、豊臣秀吉の命令で家康が関東に移ると、父正信は、相模国玉縄(神奈川県鎌倉市)で
1万石の所領を与えられ大名となりました。

本多父子、いい感じで出世の波に乗っていくねー

本多父子と関ヶ原の戦い

1600年 関ヶ原の戦いが勃発すると、正純(当時35歳)は、家康に従軍して戦いました。

一方、父正信は徳川秀忠と共に、真田昌幸の居城の上田城の戦いに参加しましたが、足止めを強いられ関ヶ原には、遅参してしまいました。

息子の秀忠が、関ヶ原に遅参した際、父の家康が激怒した話は有名ですよね!

【 上田城 】

さて、関ヶ原の戦い後の軍議で、家康(当時57)が重臣たちに後継者を誰にすべきかを尋ねました。

そこで本多正信・正純父子は、豊臣秀吉の養子だった結城秀康(26)を強く推し、

譜代大名の大久保忠隣(おおくぼ ただちか)は、関ヶ原に遅参するという大ミスを犯した三男の徳川秀忠(21)
の弁明を行い、秀忠を強く推しました。結果、秀忠が後継者になることが決定!

関ヶ原の戦いの後に、また違う戦いがあったのか。

将軍秀忠にとっては、自分を推してくれなかった本多親子。
この事が、後で尾を引かなければいいけど。

【 徳川秀忠/Wikipediaより 】

本多正信 VS 大久保忠隣

そして1603年、家康が征夷大将軍となり江戸に幕府を開きます。

1605年、家康が将軍職を三男の秀忠に譲って『大御所』となり、将軍・秀忠は江戸城に、
大御所・家康は駿府城(静岡県)に居住したことで、二元政治体制が始まりました。

【 駿府城 】

そして駿府の家康には正純が、江戸の秀忠には大久保忠隣(ただちか)が側近として付き従い、
父正信は 江戸に残って両者の調停を務める役割となりました。

1608年、正純は43歳の時、下野国(栃木県)小山藩3万3,000石の大名として取り立てられることに。

【 小山城(祇園城)跡 】

ちなみに、さっきから登場している家臣、大久保忠隣さんは、ザ・武断派。

1610年、徳川幕府の老中(江戸幕府の最高職)に就任すると、
酒井忠世・土井利勝らと共に第2代将軍・徳川秀忠政権における武断派の代表格となりました。

そして大御所・徳川家康が駿府城にいるという二元政治の中で、徳川家康の後継者に結城秀康を推したザ・文治派である大老格の本多正信・正純父子と対立が激化していくんだよー

そして1614年、大久保忠隣がなんと突然の改易処分に!!

改易の理由は幾つかあるけど、
本多正信が『大久保忠隣が謀反を企てている』と家康様に讒言(ざんげん)したことも一因かも。

いつの時代もライバルを蹴落とすため、チクるのぉ~💦

蹴落とした相手から、半沢直樹のように倍返しされなきゃいいけど。
でも世の中、因果応報だから、やった事はやり返される⁈

こうして父正信は、大久保忠隣との権力争いに勝利し、大きな権力を手に入れることに成功したのでした。

本多正純と大阪の陣

そして、息子の正純も徳川政権で大活躍が続きます。

1614年、あの方広寺鐘銘事件にも関与。

方広寺の鐘 に「国家安康・君臣豊楽」と記されていることを知った家康が激怒。 豊臣家は、徳川家康を呪い殺そうとしている、とイチャモンをつけて、大阪の陣開戦のきっかけとなった事件。

さらに同年、大阪冬の陣で豊臣秀頼と和睦した際に、『大阪城の外堀だけでなく、内堀まで埋めてしまいましょう』
と家康様に進言したのは、正純だと言われています。

表面上和睦しといて、ちゃっかり内堀まで埋めて、また戦をしかけるって、
かなりのワルだね~
まっ、この策略のお陰で徳川が勝ったから、凄いけど。

でも敗れた真田幸村が、勝った徳川側からも、
「日の本一のツワモノ」と言われ男を上げたのとは雲泥の差だな。


やっぱり、敵味方関係なしに幸村の武士道・侍(サムライ)としての生き方に、皆が共感したんだろうね。

家康の絶大なる信頼 本多父子

こうして、2代続いて家康に信頼され、幕政の中枢に君臨する本多父子。
徳川政権でのこの親子のポジションはもう絶対的!

けれど・・・父正信は、やはり切れ者だった
その絶大な権力ゆえに、周囲から激しい妬みがあることを分かっていて、その人達に足を引っ張られないよう警戒していたんだよね。

だから、家康様からどれほど加増を持ちかけられても、固辞を貫き、断固として受け取ることはなかったんだって。

江戸幕府の中枢で働いていた正信ですが、生涯、その石高は2万2,000石(一説には1万石)

これって例えば・・・
徳川四天王の本多忠勝が10万石、井伊直政が18万石、などを考えると、少なすぎ!!

でもこうやって、自分の石高を少なくすることで、周囲からの妬みを和らげ、
絶対的な権力とのバランスをとっていたんだね。

父正信は、客観的に自分を見ることが出来て、セルフプロデュース能力にたけていた!

これってまさに・・・戦国のJYP(ジェイ・ワイ・パーク)ww
自分の見せ方、立ち位置を分かってる!分かってる~!!

息子 本多正純への訓戒

さて、正信は常々、息子の正純に

「我の死後に、汝は必ず増地を賜るだろう。3万石までは本多家に賜る分としてお受けせよ。
だがそれ以上は決して受けてはならぬ。もし辞退しなければ、禍が必ず降りかかるであろう」


と説いていました。

さらに、正信は秀忠にも、

「もしこれまで正信のご奉公をお忘れでなく、長く子孫が続くことを思し召しされるのなら、嫡男正純の所領は今のままで、これより多くなさらないように」

と嘆願しだんだって。

さすが戦国のJYP (ジェイワイ・パーク) 父正信さん。
得意の客観力で、息子のプロデュースも忘れない!


父正信は、理解していたんだよね。
周囲の妬みや怒りを買うことが、身を滅ぼす事を・・・・。

1616年、徳川家康が亡くなると、その後を追うかのように、49日後、本多正信も死去。

家康と父正信という強力な後ろ盾を、相次いで亡くした正純でしたが、駿府から江戸に転任し、
第2代将軍・徳川秀忠の側近となり再スタートを切りました。

そして1619年10月、正純51歳の時、亡き家康の遺命だとして、
下野国(栃木県)小山藩5万3,000石から宇都宮藩15万5,000石に加増を受けることになりました!
一気に10万石もの加増、やったね!!

って、ちょっと待ったーー!

父正信が、3万石以上の加増は受けるなって、口を酸っぱくして説いてたよね?
どうしちゃったの正純さん!!

もちろん、息子の正純も頭のいい切れ者だったから、父親の言いつけを守るべく、
『たいした武功もない自分にとっては、多すぎる恩賞です』と言って、加増の固辞はしたらしい・・・

でも・・・
結果的には、石高の加増を受けてしまったww 

あーあ!オーマイゴット!!


確か、父正信は、
『 もし辞退しなければ、禍が、必ず!降りかかるだろう 』

って予言してたよね。コワっ!

こうして、この石高の加増が、思わぬストーリーへと展開していくのでした。
つづく💖

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