戦国カフェ 〜OLが戦国武将をゆる〜く語るブログ〜

プロフィール

名前:戦国アイコ 
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関東7名城☆宇都宮城ヒストリー💖(5)お家の再興をかけた朝鮮出兵!宇都宮氏の結末は?国綱と弟は?このエンディングにあなたはきっと涙する

2021/11/27

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こんにちは!戦国LOVEのアイコです💖
今回は、いよいよ宇都宮家にまつわるお話の完結編だよー

宇都宮国綱と慶長の役

改易処分を受け、宇都宮を追放され、岡山の宇喜多秀家の下に預けられた宇都宮国綱。

同じく改易となり上杉景勝に預けられた弟の芳賀氏当主、芳賀高武。

しかし、2人にはまだ挽回のチャンスがありました。
それは秀吉様から「朝鮮での戦功次第では再興を許す」と言ってもらえたこと。

こうして国綱は、戦国大名としての宇都宮家のお家再興を目指し、サイコな弟、芳賀高武とともに、慶長の役での順天城の戦いに参陣しました。そして、この戦いでしっかり武功を立てることに成功したのです!

【 慶長の役 】

やった~~!!これでめでたくお家再興を許してもらえる!!

・・・とはいかなかった~~

国綱が慶長の役で奮闘している中、1598年9月、
何と!!お家再興を約束した本人、秀吉様が亡くなってしまったのです💧

だからお家再興の話は、ウヤムヤに。

国綱:「わざわざ朝鮮まで行って頑張ったのに、話が違うっぺょ~」
「ごじゃっぺ言ってんなよ~ ※ウソ言ってんなよ~」と言ったかは定かではありませんが・・・・。



そして時代は、豊臣から徳川へ。世の中がまた大きく動き出しました。
お家再興の夢は泡と消え、失意にくれた国綱ですが、ここからどう行動していったのでしょう?

宇都宮家長男 国綱と関ヶ原

1599年、帰国した国綱は家来60人を連れてお忍びで京都、大阪へ行き、家康様への接近を図りました。
そして、当時大坂城西の丸にいた家康様に仕官したのです。

さすが国綱さん、時代を見据えた素早い行動。
次の権力者の家康様に近づいて、お家再興のチャンスを狙ったのね!

三男 芳賀高武と関ヶ原

そして弟、三男の芳賀高武。彼もまた宇都宮家お家再興に向けて始動していました。

って・・・お家取り潰しの原因は、何を隠そうこの人なんだけど(詳細は前回の記事)
高武さんなりに責任を感じていたのでしょうか?

そして高武がお家再興をかけて仕えた主君は、アイコの好きな石田三成さん~💖

関ケ原の戦い(1600年)の前年には石田さんの家臣となり、佐和山城(滋賀県彦根市)に入っていたんだって。

でも石田さん、何でこのサイコな高武を雇ったんだろう?

実はその頃、諸将たちの間で、高武は「武功も世の常ならぬ」 と評判になっていたそうです。
この意味は、武功(戦いで上げた手柄・軍功)は、この世のものとは思えない!素晴らしい!ってこと。

確かに、兄の家臣を執拗に追いかけて殺してしまう行動、この世のものとは思えんわww
(詳細は前回記事)


戦でもあの狂気ぶりを発揮して、高武さん、かなり強かったのだろうか?

確かに、あの異常な狂気、テレビやインターネットがない時代に評判になるなんてすごい!!
って言うか、あんなの聞いたらネタ的に人に話したくなるのも分かるww

当時の石田さんは、秀吉様や前田利家の死去で後ろ盾を失い、諸将との対立で中央政界を追放されていた時期。

そんな状況でも、徳川に対抗して、多くの大名・武将を味方につけるために多数派工作に尽力していました。

だから「武功も世の常ならぬ」と評された、ターミネーター高武にも頼もしさを感じ期待したのかもしれませんね。

こうして高武は、石田さんの家臣となり、兄の国綱とは別のルートで宇都宮氏再興を目指しました。

高武が関ケ原に出陣した記録はありませんが、関ヶ原の前年から石田さんに仕官し、御家再興を目指したという目的を考えれば、きっと関ケ原で奮戦した可能性は大ですね!

次男 結城朝勝と関ヶ原

さて国綱には、もう一人弟がいました。次男の結城朝勝(ゆうき ともかつ)です。

宇都宮城ヒストリー(1)でちょこっと名前を出しましたが、宇都宮家再興の話をする時、やっぱりこの弟君なしには語れない~

結城朝勝ってどんな人?  ~ 戦国豆知識 ~ 

国綱の父 広綱が亡くなった時、母は実家である佐竹氏のサポートを受け、
次男の朝勝を茨城の結城氏に、三男の高武を栃木の芳賀氏に養子に出して、近隣諸侯との連携を強めました。

※当時、朝勝8歳(今でいう小学2年生)

これにより結城・佐竹・宇都宮3家の同盟関係が構築され、南関東の一代勢力 北条に対抗する体制が構築されました。

しかし1590年、小田原征伐で北条氏が滅亡すると秀吉様の天下に。

北条が滅べば、関東での脅威がなくなり、3家の同盟の必要性が無くなっていくのでした。

そんな中、結城朝勝の養父 晴朝は、関白秀吉に近づき養子縁組の要請をします。

そして、新たに関東に移封された徳川家康の次男で、秀吉様の養子(人質)となっていた羽柴秀康が結城氏の養子になる事が決まりました。

これにより結城秀康が誕生したのです(後の2代将軍、徳川秀忠の兄)

【 結城秀康 】

当時、朝勝は22歳。その頃すでに養父の結城晴朝に代わり当主となっていました。
しかし、その座は、家康さんの次男の結城秀康へ。

そりゃないよ~養父の結城さん!

8歳から14年間、結城家で育ってきたのに・・・
愛情ってもんは湧かなかったんかい!!


まぁ、後の2代将軍秀忠の兄だから、欲しい気持ちも分かるけど。

一転、結城家にとって『不要な人』となり居場所を失った結城朝勝は、泣く泣く実家の宇都宮家へ戻りました。

そして、兄の国綱を補佐する立場として再出発!

しかし1597年、突然、宇都宮氏は改易処分に!

朝勝は、母方の実家で従兄の佐竹義宣が当主を務める、佐竹氏の下に身を寄せることにしました。

宇都宮家 ⇒ 結城家 ⇒ 宇都宮家 ⇒ 佐竹家 

って朝勝さん、翻弄されるね💦 そして1600年、関ヶ原の戦い勃発。

朝勝としては、己の立場を奪った結城秀康とその実家・徳川家がとにかく憎い!
なので、一貫してアンチ徳川としての行動をします。

佐竹氏は、家中の意見がまとまらず、石田さん側の西寄りではあるものの、一応中立という立場をとっていました。

そして朝勝は、上杉景勝の下につき、福島の白川城を拠点とし留守中の関東を突く役割を与えられ、

出典:ウィキぺディア

【 上杉景勝 】

さらには佐竹氏との連絡役や、宇都宮旧臣による一気の挙兵などを計画していました。

けれど・・・関ヶ原本戦が一日で終わってしまった為に、結局関東では戦闘は起こらなかったのです。

関ヶ原後 宇都宮家の再興は?

さて、関ヶ原の戦いは、家康様の東軍勝利に終わりました。

宇都宮家長男の国綱は、家康様側につきましたが、弟2人は西軍についていたために、足を引っ張られ・・・

国綱の『家康様の許しを得てお家再興!』という最後の夢は、叶うことはありませんでした。

こうして戦国大名として宇都宮家を再興させる!という夢は完全に消えたのでした。~ 完

兄弟の歯車かみ合わないな~

三人が力を合わせて戦う、毛利家の『三本の矢』とはいかなかったね。

その後、国綱は諸国を流浪し関ヶ原から7年後の1607年、江戸浅草の石浜で失意のうちに病死したと言われています。享年40歳。

残念ながら、大名としての地位・お家再興はならなかったけど、宇都宮氏としては存続しました

息子の義綱は成人後、水戸藩に仕え、重臣格にまで出世、宇都宮氏は明治維新まで水戸藩重臣としての地位を保ち続けることが出来ました。

また、国綱の妻・小少将は徳川和子(とくがわ まさこ ※徳川秀忠の五女で家康の内孫)の乳母となりました。

そして三男の芳賀高武は、1612年に死去。享年40歳。

1600年の関ヶ原から死去するまでの12年間の動向は不明ですが、子の高成は、国綱の息子と同じく水戸藩に仕えたと言われています。

そして最後に、反徳川に闘志を燃やしていた次男の結城朝勝はどうなったのでしょうか?

関ヶ原後、佐竹氏は出羽久保田(秋田)へと移封となり、朝勝もこれに従っていました。
しかし1614年、大阪の陣が勃発すると佐竹家を出奔し、大阪城へと入城しました。

ちなみに、自分の立場を奪った憎き結城秀康は、1607年に病死しています。

でも、朝勝はまだ、反徳川に燃えていた~!!

夏の陣の最終決戦、天王寺・岡山の戦いでは、
石川康勝(石川数正の次男)と共に真田幸村の左翼の隊として戦いました。

幸村隊と言えば家康本陣目掛け、玉砕覚悟で突破!突破!!突破!!

徳川家康に『もうここまでか』と覚悟させる程の攻撃をしますが・・・
健闘空しく、真田幸村、石川康勝とも討ち死にします。それは決死の玉砕覚悟の戦いですからね。泣

共に戦った結城朝勝さんも、今回ばかりは無事ではすまないはず・・・

って、何と朝勝さん、この激しい戦いも生き残って無事だった~!!

スゴイね!
幸村隊は、玉砕覚悟で突進して家康本陣手前でやられているのに、朝勝さん無事って!


物語からすると、幸村隊と共に・・・。と言うパターンかと思いきや、
これも反徳川の執念のなせる業かぁ~。
どんだけの執念なのよww

この後は再び久保田(秋田)へ戻り、宇都宮姓に復し晩年は神官を務め、1628年に60歳で死去。
彼の子孫の宇都宮家は代々久保田藩に仕えたそうです。

宇都宮家の最終話☆終わりに

さて、5回にわたりお伝えしてきた、宇都宮城主、宇都宮家のお話はこれでおしまいです⭐

当主で長男の国綱さん、9歳で家督を引き継いでから、佐竹さんと協力して北条に対抗し、秀吉様に庇護を受け、
改易後もあきらめず、最後は時代を読んで家康様に従ったことは立派だったと思います。

次男の朝勝さん、養子先から冷遇され、戻った実家も改易、その後も反徳川の気持ちを持ち続けて、夏の陣さえ生き延びて長生きし、最後は神職に。

三男の高武さん、激しいサイコな性格で突っ走り、実家に迷惑かけたこともあったけど、石田三成さんも期待するほどの武功を挙げた実力があったのでしょう。

国綱さん、お家再興については、弟2人の行動に足を引っ張られた感があるけど、
弟たちもまた、それぞれの立場で精いっぱい行動して、生き抜いたんだと思う。

だからアイコは、3人の健闘を称え拍手を送りたい。お疲れ様でした!

でも、やっぱりこうも考えちゃう。
もしも、国綱が、浅野長政の次男を養子にもらっていたら・・・って。

きっと浅野家との関係も良好だったはずだよね。

さらには宇都宮領の石高を詐称していたとしても、検地責任者が浅野長政さんなのだから・・・

息子が養子に行った家だもん、きっと忖度してくれたはずだよな~、養子もらってたら、国綱さんはこんなに頑張らなくても良かったのにな~って、妄想しちゃうww

さて、宇都宮氏という城主が去り、建物だけが残った宇都宮城。

この宇都宮城、この後は城主を変えて色々な事が起こっていくよー
来週もお楽しみに💖

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