戦国カフェ 〜OLが戦国武将をゆる〜く語るブログ〜

プロフィール

名前:戦国アイコ 
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関東7名城☆宇都宮城ヒストリー💖💖(10)釣り天井事件はなぜ起きた?『私は絶対やってない!』本多正純の栄光と転落人生☆涙の完結編!

2022/01/02

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新年あけましておめでとうございます♬
今年も、一緒に楽しく戦国しましょう!よろしくお願いしまーす

今回は本多正純の釣り天井事件、涙の完結編だよ💦 ハンカチ必須ww

本多正純 弾劾される

山形藩、最上義俊の改易に際し、山形城の受け取り対応に派遣された正純さん。

そこで、後から来た使いの伊丹康勝と高木正次に、将軍秀忠への謀反・暗殺企ての疑いがあったとして、
いきなり11ケ条もの罪状を突き付けられてしまいました。

この中には、釣り天井を仕掛けて秀忠を圧死させようとした疑惑も含まれていました。

実際、釣り天井の仕掛けは、なかったと証明済みのはず!
正純は毅然と答え疑いを晴らしました。

でも、次の①②③についても責められ・・・

①宇都宮城の本丸石垣を無断で修理したこと(抜け穴の工事)
②鉄砲を秘密に製造したこと
③将軍家直属の根来衆鉄砲隊を処刑したこと

あ~これって『マル秘・正純挽回大作戦!』で、鼻息荒くバリバリやってたことだ。

だから正純さん、この3つについては、適切な弁明が出来なかったのです。
その結果、宇都宮所領15万石は取り上げられてしまいました。

ただし!代わりに秀忠は、

『先代・家康様よりの忠勤に免じて、改めて出羽国由利(秋田県由利本荘市)に5万5000石を与える』
と命じてくれました。

秀忠さん、そこはやっぱり父、家康様を支えた正純のことを大目に見てあげたんだね。

栃木から秋田へ転封、国替えかぁ。
まぁ10万石近く減るけど、改易は免れたし。

5万石は確保出来たんだもん、この程度の仕置きで済んで良かったね!

以上、これで本多正純の釣り天井事件は、一件落着!
お疲れ様!乾杯~~!

とはいきませんでした。トホホ。 

本多正純 改易処分へ

宇都宮から由利へ、5万5000石の転封を言い渡された正純。
しかし、この命令に納得しなかった

『そもそも、謀反など企てていない!身に覚えがない!私は絶対やってない!』

正純は毅然とした態度で、何と、その5万5,000石を固辞してしまったのです。

正純さん、この減封を受けたら、謀反を認めたことになるって思ったのかな?

しかし、この固辞した事が、秀忠の逆鱗に触れてしまった!
オー・マイ・ゴッド!!

激怒した秀忠は、5万石の減封命令を跳ね返したという罪で、本多家を改易処分としました。

さらに正純は、5万石はおろか、たった1,000石の捨て扶持のみ与えられ、正純と息子の正勝(同罪とされた)は、
久保田(秋田)藩主の佐竹義宣(よしのぶ)に預けられることになったのです。

あ~あ。
正純さん、空気を読んで、この減封に従えばよかったのに。


秀忠さん、
『俺が過去の実績に免じて、寛大に対処したのに、それを断るなんて何様?』
って、ブち切れた?

それにしても・・・
数ある大名の中で、何で佐竹義宣が、正純を預かる人として選ばれたんだろう?

【 佐竹義宣 】

なぜ佐竹義宣が本多正純を預かった?(アイコの妄想

理由その① 正純への罰ゲーム

秀吉政権期、佐竹家は、宇都宮家に連座して改易になりそうな危機を、石田三成💖に救われました。

そして1600年の関ヶ原の戦いでは、恩義がある石田三成への忠義から西軍寄りの立場を見せましたが、
家中の意見が分かれ、傍観するに留まりました。

【石田三成】

結果、東軍が勝利。
佐竹義宣は家康に謝罪し、常陸54万石から秋田20万石に大幅減封になってしまったのです。

実はこの、大幅減封については、正純が絡んでいたんだよ。

当初、家康様は、

『佐竹は、敵対というほどではないから、そのまま置いておこう』と言ったのですが、
これに正純が猛反対! 茨城から秋田へ、20万石に減らしてしまったのです!


外様の佐竹を江戸から遠ざけて勢力を削ぐことが、幕府のためと考えたのか?

家康さんがOK出したのに、わざわざ反対するなんて。

正純さん、人に厳し~い!
弱い相手を、徹底的にコーナーに追い込むタイプね。

約20年前、自分が追いやった人のところで世話になる、という屈辱。人生わからないもんだね。
秀忠さん、そんな屈辱的な罰ゲームを味あわせたかったのかな。

理由その② 佐竹は最も信頼出来る外様

関ヶ原では傍観した佐竹氏。
結果、徳川幕府から見ると、信頼できるか分からないビミョーな立ち位置の外様大名となりました。

しかし!1614年大阪冬の陣で、佐竹軍は、しっかりと幕府側に味方し、勝敗を左右した“ 今福の戦い ” で、
目覚ましい活躍をしたのです!


ちなみに、この冬の陣で、幕府からを感状受けた12名のうち、5名が佐竹家中の武将だったんだって!
(※感状:特別な功労を果たした者に対して、評価・賞賛するために発給した文書のこと)

こうして幕府における佐竹氏の評価は回復し、幕府から信頼のおける外様大名としての地位を確立していきました。

元々、徳川家康は、石田三成に忠義を尽くす義宣のことを、
今の世に、佐竹義宣ほどの律儀な者はみたことがない
と評価してたしね。

冬の陣でしっかり活躍して、秀忠も信頼したのでしょう。

正純を良く思わない、かつ秀忠が信頼する外様、流罪としては適地の江戸から遠くて寒い秋田、
そんな理由で、佐竹義宣に白羽の矢が立ったんじゃないかな。

佐竹義宣、本多正純を厚く迎え入れる

こうして1624年、本多父子は、秋田の佐竹義宣の元へやってきました。

正純は、幕府の命令で預った罪人。本来であれば閉じ込めて、外出させない事が決まりでした。

しかし佐竹義宣は、

『不自由があれば何なりとお世話します』
『気分が憂鬱な時は、外を歩いても構いません』

と申し出て、本多父子をリスペクトし丁重に扱ったのです。
そして本多父子の幽居は、高台にある、町では鳥海山がいちばん美しく眺められる場所に定めらました。

義宣は、正純の失意を慰めようと、時々、正純の幽居を訪れて談笑したり、家臣が撃ったキジなどを届けて
厚くもてなしていたんだって。

佐竹さん、器広い💖優しい!!

佐竹義宣と本多正純 癒しの日々

ちなみに当時、正純は59歳、義宣は54歳でお互い人生の後半。

常陸の国を父親の佐竹義重が統一、秀吉政権期、一時は佐竹一門で100万石と言われた絶頂期から、
お家改易の危機や、関ヶ原後は秋田20万石へ減封、その後大阪の陣の活躍で名誉挽回・・・

そんな激しい浮き沈みを経験してきた佐竹義宣。

【大阪城】

政権トップから罪人に転げ落ちた正純に対して、同情やねぎらいの気持ちがあったんでしょう。

ある時、正純は、

関ヶ原の後、『佐竹の処分について相談があった時、家康様は佐竹はそのままで良いと言ったのに、
自分が反対して、20万石に減らしてしまった
』と義宣に正直に打ち明け、

『そんな自分が今日このような世話をうけるとは・・・』としみじみ語った、というエピソードもあります。

罪人にまで落ち権力のかけらもない自分。
そんな自分を、丁重にもてなしてくれる佐竹義宣。

本多正純は、この時初めて、
計算や損得勘定のない人の優しさに触れたのかもね。

こうして義宣のお陰で、本多父子は、ささやかながらも穏やかな幽居生活を送ることが出来ました。

でも、
この生活は長くは続かなかった。

本多正純、幽閉と悲しき最期

しかし、正純が自由に外出し暮らしていることが、お庭番(※スパイ)から秀忠の耳に入ってしまったのです。

怒った秀忠は1624年4月、義宣へ使者を送り、正純の保護を厳重にし、人の出入りを禁止するよう命令しました。

佐竹義宣は、やむを得ず、逃亡防止のため建物の四囲に柵を設け、わずかな光が入る小窓だけを残して、
戸障子を全部釘打ちにしました。

外出は禁止、食事は一ヵ所残された戸から差入れられ・・・
こうして本多正純と息子の正勝は、完全な囚人の処遇、監禁状態となってしまいました。

ここまでやるか⁈
ひどいよ!

でも、秀忠の正純に対する憎しみは、想像を絶するものだったんだね。

こうして過酷な生活を送った本多父子でしたが、息子の正勝が先に亡くなります。
1630年5月、6年間の監禁・幽閉生活で健康を害し、正勝は35歳の生涯を終えました。

父親の正純は、その後さらに生き延び7年後の1637年3月に73歳で亡くなりました。

日だまりを 恋しと思う うめもどき 日陰の赤を 見る人もなく

正純が、この幽閉生活で詠んだ歌です。切ない・・・

それにしても・・・

日も当たらない過酷な幽閉状態で、13年も生き延びたって驚異的じゃない?

普通なら、息子に先立たれ心が折れてしまう。生きる意味、希望もないし。

佐竹義宣だって、正純より先に、1633年に63歳で亡くなってしまった。
ただでさえ、戦国時代で70過ぎまで生きるってスゴイのに、本多正純は、何で長生き出来たんだろ?

本多正純、石田三成の言葉がよぎった?(アイコの妄想)

こんなエピソードがあります。
関ヶ原の戦い後、石田三成が捕縛された際、その身柄を預かったのは本多正純でした。

正純は、三成に対して、

「貴殿も忠臣なら、なぜ潔く腹を切らないのか?」

と質問しました。

すると、三成は、

「大望ある者は、最後まであきらめず己の信念を貫くものだ。お主にはそれがわかるまい」

と言い返したと言われています。

い~ね~
この、石田さんの最後の最後まで諦めない、ファイティングスピリット!

アイコの好きなとこ💖

全身全霊をかけ秀忠に忠義を尽くしていたのに、謀反の罪を着せられ陥れられ、罪人となり監禁された正純。
息子まで失った絶望の監禁生活の中で、いさぎよく命を絶つことも出来たはず。

でも、なぜ正純はその後も生に執着し、7年間も生き続けることが出来たのか?

きっとそこで正純は、この石田三成の言葉を思い出し、
汚名を晴らすまでは、死んでなるものかと信念を貫いたのだと思います。

『私は絶対やってない!謀反なんて企てていない!』

そんな信念が生きるパワーとなり、正純を長く生かす原動力になったんじゃないかな。

現に正純は、汚名が晴れない場合は、子孫に対して「本多」の姓を名乗らないようにと遺言をしています。

生きているうちに、汚名を払拭したかったのでしょう。
また、秀忠からの恩赦を信じていたのかもしれません。

アイコは、そんな風に思います。

例えるなら、

誰かにフラれても、
『きっと私が一番だって分かってくれるはず。それまで自分磨きして待ってよう』って、

落ち込まずに前向きに生きる、みたいなww

正純さんも、『きっと分かってもらえるはず!』と思っていたのかな。

本多正純の失脚とその後

さて正純の失脚により、家康時代に側近を固めた一派は完全に排除され、土井利勝ら秀忠側近が、
影響力を一層強めることになりました。


そして、本多正純の後の宇都宮城主は、あの亀姫の孫!奥平忠昌が返り咲いたのです。

土井派、亀姫が、正純の失脚を狙っていたんだろうね。

正純さん、下のイラストみたいに、亀姫に差し入れして、
上手く取り入ること出来なかったのかなww

釣り天井事件 終わりに

秀忠と正純の関係で、アイコが好きなエピソードがあります。

確かに秀忠は、父・家康の代から、自分の意にそぐわない正純を疎ましく思っていました。

でも、秀忠が関が原の戦いの際、上田城攻めのため本戦に遅れてきた時、

【上田城】

激怒する家康様に対し本多正純は、

「秀忠公が遅れたのは、参謀たるわが父正信が謀を誤った為であります。どうか父正信を処罰し、
秀忠公のせいでないことを天下に明らかにして頂きとうございます」
とお願いしたそうです。

その言葉に秀忠は感謝し「よくぞ言ってくれた。そのほうの言葉、一生忘れぬぞ」と言ったんだって。

この時の正純の想い、そして秀忠の感謝・・・
どこで歯車が狂っちゃったんだろうね。

父親のコネで、若い頃から家康様に仕え、寵愛を受けて30年。
正純は、幸か不幸か、メインロードの歩き方しか知らない人でした。

家康様と父親が亡くなった時、自分の時代も終わったことを理解できなかったのかな。

変わらずスポットライトを浴びて、メインロードを歩くことにこだわった結果、周りとの摩擦が起きて、
恨みを買い、自ら落ちて行ってしまった。

こんな寂しい死に方をすべき人ではなかったよ💦
時代を、空気を読めず、さらに、慢心を捨てきれなかったことが招いた結果なのかもしれませんね。

正純さん、お疲れ様でした!
あなたの、不器用だけど懸命に秀忠に忠義を尽くした誠意は、きっと本物でした。

ただその気持ちを、周りの人達にも注いであげていたら、
結果は違うものになっていたかもね。

これで釣り天井事件のお話はおしまいだよ(^_-)-☆
4回に渡り、読んでいただき有難うございました!

じゃまた次回、お楽しみに💖

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