
プロフィール
名前:戦国アイコ
戦国武将とカフェが大好きな20代独身会社員
- 特徴:残業は嫌い。仕事の後カフェでまったりするのが大好き。
- 趣味:猫と遊ぶこと。推理小説を読むこと。
- モットー:ほどよく頑張る。
- 好きな食べ物:スウィーツ(特にクリームあんみつ)
- 嫌いな食べ物:梅干し、納豆。
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名前:戦国アイコ
戦国武将とカフェが大好きな20代独身会社員
【結城秀康/Wikipediaより】
こんにちは!戦国LOVEのアイコです☆
今日は、徳川家康の次男、結城秀康(ゆうき ひでやす)についてのお話です💖
この肖像画、知的で優しそうで素敵ですよね♪
結城秀康は、徳川家康の次男でありながらその出生を疎まれ、
父親との葛藤を抱えて苦しみますが、そのハードな人生を熱く懸命に生き抜いていくんだよー✨
1574年2月8日、秀康は、浜松城(静岡県浜松市)城主である徳川家康の次男として生まれました。
母親は家康の正室、築山殿(つきやまどの)の世話係だった「お万の方」(おまんのかた)という
身分の低い侍女・女中でした。
家康様の側室でもないし、好きだった訳でもないらしい。
家康様、ちょっと魔がさして関係を持ってしまった?
ちなみに、秀康さんは双子だったと言われています。
でも当時、双子は『畜生腹(ちくしょうばら)』といって、動物が一度に何匹も産むことになぞらえて
忌み嫌われていたので、もう一人は家康から実子として認められませんでした。
なので、表向きは亡くなったことにし、母親の実家の愛知県知立市の知立神社の永見家に預けられ育ったんだって。
名前は永見貞愛(ながみ さだちか)。
家康にとっては、お万の方は、何の思い入れもない相手。
だからお万が身籠ったことを知ると、家康はそれを喜ぶどころか疎ましく思いました。(冷たい~💧)
家康の正室は、あの今川義元の姪で、気位の高く気の強い姉さん女房、築山殿(つきまやどの)です。
【築山殿/Wikipediaより】
ちなみに・・・
今川家は、駿河国(静岡県中東部)に、一大勢力を築いた戦国大名です。
結婚した時の2人の立場は、家康が今川家の人質、築山殿が今川義元の妹の娘だったので、
この結婚は、本家の娘が家臣と結婚したような格差婚でした。
そのせいか築山殿は、日頃から夫の家康を見下し、それを態度に表して・・・
家康は耐え続けましたが、夫婦仲はどんどん悪くなっていくのです。泣
そのトラウマで、家康はその後多くの側室を持ち、
身分の低い女性フェチになっていくよー
逆に豊臣秀吉は身分が高い女性好き、または武将の奥方好き!
性癖って怖いねぇ。。。ww
さてそんな訳で、
築山殿は家康との間に、長男の信康と長女の亀姫をもうけるも、当時、夫婦関係は冷え切っていました。
けれど夫の家康が、自分に仕える侍女と関係を持ち、その侍女が身籠ったと知ったなら・・・
激しい嫉妬で(と言うか、自分のプライドを傷つけられた怒りから)
一体何をしでかすか分からない!
ガオ~~!!
恐れた家康は、家臣の本多重次(しげつぐ)にお万の方を預けてしまいました。
やむなく重次は、本多家と交流のあった「中村家」の屋敷(現在の静岡県浜松市)にお万の方を預け、
そこで秀康は誕生し養育されることになるのです。
家康様、お万の方の身を心配したというより、
お万の方と子供という『やっかいなトラブルの元』を遠くに追いやって、
築山殿の機嫌をなだめて、何事もなかったように暮らしたかったんだろうね。
こうして家臣の本多重次は、上司が気まぐれに関係をもった女性と、その産まれた子供の面倒まで見ることになりました。(ちなにみ当時、重次は45歳)
いやー、戦国時代の家臣って、主君のためにここまでやるんだね!
指示を断ったら、打ち首か改易?ww
今なら、超ブラック!!
でもこれが忠義に厚い三河武士?
【本多重次/Wikipediaより】
さて、ここでちょっと本多重次さんの紹介をしておきまーす☆
本多重次(1529年生まれ)は、家康の父親の代から仕え、歯に衣着せぬ物言いで、
『良いことは良い、悪いことは悪い』とはっきりと意見する人物でした。
ちなみにあの本多宗家の本多忠勝さんとは五代前くらいの遠い親戚ですよ(三河地方には本多姓は多いんです)
主君 家康に対しても、全くはばからずズケズケと意見する態度に、
家康からは『気随我儘(きずいわがまま)の者にて、人を生きたる虫とも存ぜぬ生まれつき』
と評されたんだとか(これは、わがまま勝手に振る舞い、人を人だと思わない傍若無人な奴と言う意味)
気性が荒くてすぐ怒り、声はバカでかく、傍若無人な態度だったので、
三河では「鬼作左(おにさくざ)」と呼ばれていたそうです。
ガオ~~!!
秀康さん、こんな鬼みたいな家臣に預けられて大丈夫?
でも鬼と呼ばれるくらいなので、武勇にも優れ、
徳川軍が大敗した三方ヶ原の戦いでは、一人で敵兵数十人に囲まれてしまった絶体絶命のピンチでさえ、
上手く切り抜けて生き延びたり、戦場でも活躍しました。
ただ、そのせいで片目や片足、指が欠損していたと伝わっているよ。
また、武勇だけでなく、
三河三奉行(みかわさんぶぎょう)※徳川家康の三河時代に奉行として活躍した3人の戦国武将
の一人として、行政面でも力を発揮しています。
気性が荒く、思慮深い感じではなかったため『本多重次に奉行という仕事は務まらないだろう』
と周りからは思われていました。
けれど実際、奉行職に就くと、
心正しく、えこひいきをせず、民への配慮があり、訴訟では双方の話をしっかりと聞き・・・
明白に事を進めていく様子に、周りの皆が驚いてしまったんだって。
鬼作左、豪快で恐そうに見えるけど、
裏表がなく情に厚い人だったんだね。
なんかこの本多重次と結城秀次の関係って、細田守監督の「バケモノの子」の熊徹と久太みたいだね!
重次は、熊徹みたくガサツで荒々しいけど、秀康に深い愛情を注いでいく。
秀康も久太のように、気持ちが強い青年に育つといいよね。
さて、秀康誕生の頃の戦況は、信玄亡き後を引き継いだ、武田勝頼率いる武田との緊張関係が続いていて、
相変わらず屈強な武田勢に、織田・徳川同盟軍は頭を悩ませ対応に追われていました。
そのような状況の合間をみて、本多重次は、秀康が無事誕生したことを家康に報告に行きました。
けれど家康は一言、『そうか』と言ったきり、まるで興味なし。
戦のことで頭が一杯なのと、お万の子を正式に認知することに抵抗を感じているようでした。
そんな家康に、本多重次は、
『ではせめて、御名前をおつけ戴きたく!』
と家康に大声で詰め寄ります。
実直でまっすぐな重次さん。
あなた父親でしょ!?この期に及んで子供として認めないのかって
怒りの気持ちがあったんのかもね。
重次の熱意に押された家康は仕方なく、
『どんな顔をしているのだ?』と聞きました。
それに対し本多重次は、似顔絵を描いて差し出しました。
それを見た家康は・・・
『これは、ギギだ』って言ったんだとか。
ん❓ギギ❓❓ 何んだ?何んだ?ギギって。
ギギっていうのは、これです!!
↓ ↓ ↓ ↓
【ギギ/WEB魚図鑑出典:林良和さん】
三河に住む淡水魚で、ナマズの一種でナマズより細いこんな感じ。
そして家康は、
『おぎい、でよい』と一言。
こうして、幼名は「於義伊(おぎい)」とか「於義丸(おぎまる)」と呼ばれるようになったとさ。
マジかぁ~。
ちょっと重次さ~~ん、どんな似顔絵書いたの?💦
赤ちゃんの顔が、魚みたいなんて。どんだけ絵心ないの・・・絶句!!
アメトークの絵心ない芸人もビックリだねww
っていうか家康様、自分の子供の名前で大喜利している場合じゃないでしょ 💦
しかも大すべりだしww 秀康さん可哀そう。
っていうか、重次さんも、その名前に賛成しちゃダメでしょ!
成り行きから、養父となってしまった家臣の本多重次でしたが、於義伊は、家康のれっきとした次男です。
機会を見ては、家康に於義伊の成長の様子を報告し、対面するようにお願いし続けました。
でも家康は、武田勝頼との戦いに直面していたために忙しかったし、そもそも於義伊に興味がないし。
重次のお願いは、断られ続けました。
う~ん。。
このままではらちが明かないぞ。さてどうしたものか?と重次は思案をめぐらせます。
そんな中、1575年5月、織田・徳川の連合軍は、長篠の戦いでついに武田勝頼率いる武田勢を撃破!
ということは・・・
家康にも少し精神的に余裕ができるはず!
本多重次は、これを見逃しませんでした。ただちに重次は、
戦略を変えていきます。
翌年の1576年のある日、今度は、家康本人ではなく、家康の長男で岡崎城城主の松平信康(のぶやす)を訪問し、
家康の長男信康からのアプローチに切り替えました。
正室 築山殿の息子、信康は当時18歳。
馬と鷹が趣味で、合戦話が大好きな武人肌で、重次とは話が合う関係でした。
信康は、妻である信長の娘・五徳との間に、第一子の姫が生まれたばかりという状況で、
重次は、信康の子供の誕生のお祝いという名目で訪れ、信康にさりげなく於義伊の話を切り出しました。
すると信康は、重次の話に耳を傾け、
自分に異母弟がいる事、そして次男である 於義伊 が冷遇されている事を初めて知るのでした。
そしてこれを不憫に思い、於義伊を父に対面させようと言ってくれたのです!
重次さん、作戦成功ね!!
於義伊のための、3年越しの努力が実った!
こうして1577年、於義伊3歳の時、家康との対面のチャンスが訪れました。
家康は、岐阜の信長に呼ばれて浜松城を出て、途中、信康と孫の顔を見に岡崎城に立ち寄ることになったのです。
重次は岡崎城へ於義伊を連れて行き、於義丸を座敷の障子の陰に待機させました。
ついにやってきたこの機会!
家康様、どんなリアクションするの?
そうして家康が、久しぶりに会った信康と屋敷の中で歓談していると・・・
障子の陰から「父上~!!」と子供の声が!!
でも家康は、それが於義伊の声だと察し、とっさに席を離れようとしたのです。
ところが!
そんな家康に信康は「弟に見参を許してほしい」と必死で懇願しました!
そのあまりの形相に・・・
徳川家康は仕方なく於義伊と初対面し、我が子を膝の上で抱いたと伝えられています。
本多重次の於義伊への愛情と、長男の松平信康の弟への優しさのお陰で、
やっと父親に会えてよかったね!
この対面をもって、於義伊は正式に徳川家の次男として認知されることになったのでした。
家康様も、長男をも巻き込んでの重次の執念に、ついに観念しましたねー
重次さんの粘り勝ち!!よっしゃー!!
こうして於義伊は、無事認知されて、やっとこれからは徳川家に迎え入れられるのね💖
と思いきや・・・
この於義伊への冷遇っぷりは、エスカレートしていくよ~~泣 つづく☆
次回をお楽しみに💖