
プロフィール
名前:戦国アイコ
戦国武将とカフェが大好きな会社員
- 特徴:残業は嫌い。仕事の後カフェでまったりするのが大好き。
- 趣味:猫と遊ぶこと。推理小説を読むこと。
- モットー:ほどよく頑張る。
- 好きな食べ物:スウィーツ(特にクリームあんみつ)
- 嫌いな食べ物:梅干し、納豆。
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名前:戦国アイコ
戦国武将とカフェが大好きな会社員
こんにちは!戦国LOVEのアイコです✨
オミクロン流行ってきちゃったけど、皆んな元気に戦国してますか(^^)/ー?
今日も、於義伊(おぎい)こと結城秀康のお話続きだよ💖
1584年3月~11月にかけ、現在の愛知県にあたる尾張を中心に起こった『小牧・長久手の戦い』
【 小牧山 】
本能寺の変で織田信長が討たれた後に、織田家の後継者争いを背景にしたこの戦いは、
羽柴秀吉軍 VS 織田信雄(のぶかつ)・徳川家康の連合軍の間で行われました。
この合戦に連動した戦いが北陸、四国、関東でも起きていて、戦いは、全国規模となりましたが、
この『小牧・長久手の戦い』で優勢だったのは、情報集めと奇襲攻撃に成功した織田信雄・家康連合軍でした。
【 小牧山城 】
しかし、苦戦していた秀吉は、ここで戦略を変更します。
家康とさらに戦いを続けるよりも、外交で和睦して自分の配下に引き入れようとしたのです。
まずは織田信雄を追い込んで説得し『もう和睦しないか?』と誘いました。
そして何と信雄は、家康に相談することなく!和睦を受け入れてしまった!
家康は、織田信雄から援助を頼まれて『打倒秀吉』を掲げて参戦していたのに、
その信雄が勝手に秀吉と和睦を結んでしまい、家康は、はしごを外された形になってしまいました。
【 長久手古戦場 】
こうして、戦う大義名分を失った徳川軍は、仕方なく撤退、という流れになりました。
ちなみにこの時、秀吉軍10万に対し、徳川・織田連合軍は1万6千。
家康は、この先総兵力を投入しても勝ち目はなく、和睦が落とし所だったのかもね。
ただ、
歴史に “もしも” は無いけれど・・・
この後も、もしも秀吉が、和睦と言う選択をせず戦い続け、
膨大な軍勢で徳川軍を潰していたら?
歴史は変わっていたよね。あの「関ヶ原の戦い」も起きなかったかもしれない。
ちなみに、この小牧・長久手の戦いの時、あの軍師 官兵衛は、
毛利との領地交渉役として備中高松にいて、参戦していなかったんだって。
【 黒田官兵衛 】
もしもこの時、情報戦と調略に長けていた軍師 官兵衛が秀吉軍にいたら、
この小牧・長久手の戦いも秀吉軍が勝利し、その勢いのまま戦いを続け、家康の首を取っていた
かもしれません。
(もしも大好き💖アイコの妄想)
だって、これは、秀吉と家康が全面対決した最初で最後の戦い!
将来、家康が、豊臣家にとって脅威となるリスクは、先見の明のある黒田官兵衛ならきっと
察知できたはずでしょう!
徳川を潰すなら今が絶好のチャンス!
というか、今しかない!
『 いつやるか? 今でしょ! 』
って、黒田官兵衛は、林修か~?ww
だから徳川にとっては、官兵衛の不在はラッキーだったね!
お陰で、於義伊の運命も好転するよー
ちなみに・・・
秀吉が『本能寺の変』の後、敗戦に近い戦いをしたのは、唯一!小牧・長久手の戦いだけ。
当時から『官兵衛がいたら違う結果となっていた』と言われていて、
それが秀吉の耳に入り、秀吉の “戦上手” というプライドが傷つけられ、
その後、官兵衛の冷遇へと繋がった、という説もあります☆
さて1584年 11月、秀吉は和睦の条件として、家康に対し於義伊を養子(人質)にと要求しました。
【 えっ? 僕を養子に?】
秀吉は、家康の子供達についても調べていたようで、於義伊が、信康が死んだ後は長男的立場だから、
徳川家にとっては一番大切な跡継ぎだと思っていたのでしょう。
う~ん。
於義伊は実際、完全無視で跡継ぎから外されてたけど。
秀吉さん、徳川家の裏事情までは、リサーチ出来なかった?
徳川家の跡継ぎは三男の竹千代(秀忠)に決めていた家康さん。
兄である於義伊の処遇を考えあぐねていたから、きっとこの要求は、渡りに船だった⁈
於義伊が外交上の切り札として、お家のために役にたった!なんて喜んでいたのかもね。
秀吉の要求を簡単に受け入れようとする家康に対し、家臣の間では、
『戦に負けていないのに子供を差し出せだと!!』
『いくら養子と取り繕ったとことろで、人質には変わりない!』
と反対意見が多かった。
中でも特に激怒したのは、やはりこの人。
於義伊を日々慈しみ、可愛がり、育ての親と言っても過言ではない鬼作佐こと本多重次!
ガオ~~!
『お子たちの中で、一番出来の良い、将来徳川家の為となる於義伊様を、
わざわざ敵の大将にくれなさるなんて、殿は何をお考えなのか!!』
大きな声で、家康に罵倒しケンカを吹っ掛けました
普通は上司に、こんな口のきき方出来ないけどねw
でもそこは、さすがの鬼作佐!言いたい事は、思い切り言わせてもらう!
でも結局・・・家康の決定が覆ることはありませんでした。
当の於義伊は、人質のように養子に出されることを
どう思っていたんだろう?
秀吉と父親である家康が対立した時、自分の命はどうなるの??
でも秀吉は、我が子として育てたいと言ってるから、命までは取られない?
など、於義伊は考えをめぐらした事でしょう。これも戦国の世の習いかぁ。
これで、完全に父 家康から見放されたね。
家康さん、ちょと酷くないですか??
たかだか11歳。今でいう小学5年生。
この決定に、きっと不安でいっぱいだっただろうね。
でもこの家康の判断が、於義伊の運命を大きく変えることになるのです。
1584年12月 於義伊は、家康の重臣 石川数正(かずまさ)に連れられ、世話役小姓の
石川勝千代(石川数正の息子)と本多仙千代(鬼作佐の息子)と一緒に、大阪を目指しました。
浜松の田舎から、大阪という都会に出てきた於義伊。
町の大きさと、人の多さと、賑やかさと、見る物すべてが目新しい・・・
そして、秀吉の待つ大阪城へ到着しました。
何んじゃ⁈ この豪華なお城!
大阪城の威厳あるたたずまいは圧巻すぎて、於義伊、もう言葉にならない!
浜松にいたら、分からない世界だよ~!
なんと言ってもこの時代は、京都、大阪が日本の中心だったから、
そりゃカルチャーショックを受けるはずだね。
この中にいる、羽柴秀吉とはどんな人物なんだろう?
於義伊、心臓バクバク!!
不安と期待に胸を膨らませ、いよいよ秀吉と対面の時へ。
すると・・・
やあ~、そなたが於義伊か!
わしがそなたの父ぞ!
会うなり秀吉は、ニコニコと底抜けに明るい大きな声でこう言って、
平伏している於義伊にサッと近づき、肩にポンッと手を触れました。
えっ!?
驚く於義伊。
そりゃそうだよね。
実の父親は、いつも冷たく威厳のある雰囲気で、触られた記憶なんてないし。
気さくに笑って、自分に触れてくるなんて。偉い地位の人で、こんなタイプは想定外!
さすが人たらしの秀吉さん!
人の心にすっーと、入り込むのが巧ですねぇ。
さらに秀吉は、於義伊に対し
『今から、我が家の子として元服させてやろう。ついでにそのひなびた服も改めたほうがよい』と、
会ってまもなく、別室にて元服の儀式を執り行ってくれたのです。
会っていきなり元服の儀式?
いや~この半端ないスピード感!
このトップダウンの判断と行動力、さすが秀吉さんですね。
於義伊の気持ちもガッチリつかんだし!お見事!
そして於義伊は早速、今の流行りで新しく華やかな装束に着替え、パリッとした素敵な烏帽子をかぶり、
大・変・身~~!
実父 家康の領する田舎武士の国ではあり得ない、全然違う最新のファッションを身にまといました。
さらに、於義伊は、成人としての新しい名前を頂戴することに!
その名前こそ、
羽柴三河守秀康(はしば みかわのかみ ひでやす)
※三河守は、家康の朝廷からの官名。
『秀康』と言う名前。
それは、秀吉の『秀』と、実父家康の『康』の一字をとったものでした!
於義伊、やったね!
魚の名前から、天下人にちなんだ名前へ!(差が激しすぎw)
本当におめでとうございます!!
翌1585年、秀康の養父となった羽柴秀吉は、また大きな飛躍を遂げます。
朝廷で起きていた関白をめぐる公家同士の争いに介入し、これを上手に利用して、
自身が『 関白 』の地位につくことに成功したのです。
『 関白 』というのは、天皇の代理として政務を見るという地位。
だから、これを得たことで、秀吉は天下人としての大義名分を得ることになりました。
さらに翌1586年には、朝廷から『豊臣』の姓を賜って、『豊臣秀吉』となり、
最高位の官職である太政大臣にも就任!!
こうして、天下に号令する権限を得て、秀吉の政権は確立されました。
於義伊あらため、秀康が養子になった翌年から、
養父の秀吉も、順調に天下人に登りつめていったのです。
何だか秀康さん、あのまま徳川家で冷遇され続けるより、
天下人 秀吉の養子になって良かったんじゃない?
つづく☆
来週は、秀康の豊臣家での、きらめく日々をお伝えするよ(^_-)-☆
お楽しみに💖