戦国カフェ 〜OLが戦国武将をゆる〜く語るブログ〜

プロフィール

名前:戦国アイコ 
戦国武将とカフェが大好きな20代独身会社員

  • 特徴:残業は嫌い。仕事の後カフェでまったりするのが大好き。
  • 趣味:猫と遊ぶこと。推理小説を読むこと。
  • モットー:ほどよく頑張る。
  • 好きな食べ物:スウィーツ(特にクリームあんみつ)
  • 嫌いな食べ物:梅干し、納豆。

~⭐将軍になれなかった男 結城秀康⭐ ~(5)実父は徳川家康・養父は豊臣秀吉! 自分の存在って一体何?『将軍の兄』として短い生涯を終えた切なくて熱い人生の物語💖

2022/02/11

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こんにちは!戦国LOVEのアイコだよ!(^_-)-☆
今日も、秀康さんのお話続きから💖

秀吉の妹、家康の正室になる

秀吉は、どうしても家康を上洛させたくて、施策を巡らせていました。

このまま家康が上洛を拒めば、全面戦争に突入か⁉

徳川内部を知り尽くした石川数正が軍師となり、真田が先鋒で上杉が後ろについて信濃からを攻めてきたら、
徳川はひとたまりもない!

こんな緊迫の状況の中で秀吉は、強力な『家康上洛プラン!』を思いつくのです。

それは、なんと!『自分の妹、朝日姫(あさひひめ)を家康と結婚させること』


【 朝日姫/Wikipediaより 】

ん❓ 妹って、独身❓
何歳くらいだっけ?
確か大河ドラマ「真田丸」では、タレントの清水ミチコさん
が演じていたよね!

実はこの朝日姫、尾張国の地侍である佐治日向守(さじひゅうがのかみ)と結婚していて、
夫とは20年付き添い、仲良く穏やかに暮らしていたのです。(当時、44歳)


でも秀吉には、妹が既に結婚している事なんて全く関係なし!

1586年、秀吉は妹を強制的に夫と離縁させてしまいました。

そして朝日姫の夫は、離縁が原因で自害!
朝日姫は、大きなショックを受けてしまいます。

そして秀吉は、悲嘆にくれた朝日姫を説得し、家康に嫁ぐことにさせたのです。

秀吉兄さん、非情ですのぉ。
結婚20年で穏やかに暮らす妹を犠牲にして、ヒドイ。

妹じゃなくて、自分の奥さんあげたらいいのにww

一方この縁談は、

家康にとっても、大・迷・惑!

家康さん、築山殿が殺された後は、新しい正室いなかったんだね。
側室は沢山いたようだけど。
さすが秀吉さん、このポジションに目を付けるとは、抜け目ないなぁ。

もし、朝日殿が正室として子供を産めば、側室のお愛の方の子供である竹千代(秀忠)を押しのけて、
朝日殿の子供が徳川家を継ぐことになってしまう。

だから家康は、それを避けるために、

☆仮に子供が出来ても、竹千代を嫡子の座から外さないこと
☆竹千代に必ず五か国(駿河、遠江、三河、甲斐、信州)を保証すること

って条件を出しました。

当人同士にとっても、迷惑きわまりない結婚。
まさに形だけの政略結婚!戦国あるあるだねww

秀吉、母親を家康へ送る

1586年5月、秀吉の妹、朝日姫と婚儀を終えた家康さん。
形式上は、秀吉と義兄弟になりました。

しかし家康は、その年の夏も何のリアクションもせず、まだ上洛しない。。

家康さん、粘るね~
秀吉の配下には絶対なりたくないんだろうけど。

でも、さすがに秀吉さんも、これ以上は、我慢の限界じゃないの?
家康と戦さになったら、秀康の命も危ない⁉

けれど、秀吉にはどうしても家康との戦さを避けたい理由があったのです。
それは・・・

九州征伐!

同年4月、九州の大友宗麟(おおとも そうりん)が、『島津が攻撃してくる!助けて欲しい!』
と秀吉に頼ってきていました。

もう九州が気になってしかたがない秀吉。

早く九州に行きたい!家康との戦さが始まると九州出兵できなくなるから、それは避けたい!
もう、家康との件は早く終わらせたいんだよ~

こうして秀吉は『家康上洛プラン・パート2』として、
自分の母・大政所(おおまんどころ)を、朝日姫に会いに行くという名目で、
人質として家康に送りました。

【 大政所/Wikipediaより 】

秀吉にとって、母親を超える人質はない。これは秀吉からの最後の通告!
これで家康が上洛しなかったら、秀吉軍数十万の兵との戦さになってしまう。

そう悟った家康は、ついに折れて、上洛すると秀吉に伝えたのでした。

決着ついて良かった!
何より、これで秀康の命が救われる!

鬼作佐、暴挙に出る

同年10月18日、大政所は岡崎城に入りました。
それを見届けた家康は、20日に岡崎を発ち大阪に向かいます。

ここで暴挙に出たのが、この人、鬼作佐こと本多重次。

【 本多重次/Wikipediaより 】


当時重次は、岡崎城代だった石川数正出奔後、岡崎城代の役割を担っていました。

家康が岡崎を発つと同時に、大政所と朝日姫の宿舎の周囲に薪(まき)を山のように積み上げ始め・・・

『万一、殿(家康)の身に何か起これば、薪に火を放ち、二人を焼き殺す』

と脅す構えを見せたのです。

あれれ?薪って・・・BBQでも始めるの?
鬼作佐、いくらなんでもやりすぎ


秀吉憎しで、怒りのスイッチ入っちゃったかな。

もう誰も止めれない~それが鬼作左!

2人を焼き殺す準備をしていたなんて、秀吉さんに知られたらアウトだよ!!

さて家康一行は、何事もなく京都、ついで26日には大阪城に入り上洛を果たしたのでした。

小牧・長久手の戦い以降、外交上の駆け引きが続いたけど、これでひとまず、
家康は秀吉の家臣という形で収まったのです。

秀康さんも、良かったね!
実父の家康と養父の秀吉は、今やビミョウな義兄弟~


とりあえず命は安泰で豪華生活が続く?

鬼作佐、秀吉を怒らせ蟄居(ちっきょ)へ

鬼作佐が、秀吉の妹と母親を殺す準備をしていた事は、やっぱり秀吉に伝わってしまいました。

そして秀吉は、怒り心頭!!

さらには以前、秀康に仕えていた自分の息子をちゃっかり大阪から戻し、代わりに無断で、
甥の本多富正と交換したこともあって、重次への秀吉の怒りは収まりません。

秀吉は、家康に猛抗議しました。

そして1590年小田原征伐の後、家康が北条氏旧領の関東へ移封となった際、

家康は秀吉からの命令で、重次に厳しい対応をせざるを得なくなり、
上総国古井戸(現在の千葉県唐津市)3,000石にて蟄居(一定の場所から出れずに謹慎)を命じたのです。

重次さん、やり過ぎちゃったね~
でも秀吉さんに歯向かったんだもの、罰は覚悟していた⁉


切腹じゃないだけ、マシだったよね。

という事で、鬼作佐はこれにて引退!お疲れ様でした~!!

って、落ち込んだ幽閉生活を送っていたんじゃなく、


きっと・・・

秀吉ふざけんな~!!蟄居させやがって!
ガオ~~!!

って・・

そこはやっぱり鬼作佐だもん!!きっと死ぬまで、
家康命!アンチ秀吉!って強気で叫んでいたんじゃないかな?ww(アイコの妄想)

そしてこの蟄居生活は続き、1596年に死去。享年68。
家督は長男・成重(幼名:仙千代)が継ぎました。

家康の父親の代から徳川LOVEを貫いた本多重次。

見た目も怖く、気性が荒くて豪快、言いたい放題で、周りから煙たがられることもありました。
でも、根は真っすぐで愛情深く、優しさに溢れる人。

秀康は、生まれた時から実父に冷遇されるというツラい環境だったけれど、
人間味溢れる重次に出会い支えられ、幸せだったと思うし、

幼少期に重次の愛をしっかり受け取ったからこそ、その後の過酷な人生も、
強く真っすぐ、負けずに生き抜くことが出来たんじゃないかな

鬼作佐、有難う!💖

大政所と朝日姫 その後

さて、家康に人質に出された母 大政所はというと・・・

家康の秀吉への謁見が穏便に終わり、その役割は果たしたので、約1か月で大坂城に戻っていきました。
翌年1587年9月には、京都の聚楽第※(じゅらくてい)が完成に伴い、秀吉と共に居を移します。

※聚楽第:秀吉の京都での邸宅・政庁・城郭。
ちなみに聚楽とは「長生不老の楽しみを聚(あつ)」めるという意味なんだって。

『聚楽第図屏風』部分(三井記念美術館所蔵)

一方、家康に嫁いだ朝日姫はというと・・・

駿河に居を構えたものの、家康とはわずか2年間生活を共にしただけで、
1588年、母・大政所が病気になったことで見舞いを理由に、突如として京都の聚楽第へ。

そして1590年の正月に病気になり、14日に死去してしまいました。享年47。

好きな夫と強制離婚・夫の自害、そして家康の正室へ。
兄の政治の駒として利用されてしまったね。

あたしの人生何だったの~?って恨み節が聞こえてきそう。

秀康、九州征伐で初陣を飾る

家康との関係に決着をつけた秀吉。
早速『島津討伐』令を発して、九州にぞくぞくと兵を送り込みました。

そして1587年3月1日、佐々成政、浅野長政ら総勢一万四千の兵を率いて、自ら出征したのです。

この行軍に、秀康も百騎足らずを率いて、付き従いました。
まさに、これは秀康の初陣デビュー!!

この戦さで武功を立てたい!自分の力を養父 秀吉に見せたい!と意気込む秀康。
果たして活躍できるのか⁉

つづく☆次回をお楽しみに💖(^^)/~~~

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