戦国カフェ 〜OLが戦国武将をゆる〜く語るブログ〜

プロフィール

名前:戦国アイコ 
戦国武将とカフェが大好きな会社員

  • 特徴:残業は嫌い。仕事の後カフェでまったりするのが大好き。
  • 趣味:猫と遊ぶこと。推理小説を読むこと。
  • モットー:ほどよく頑張る。
  • 好きな食べ物:スウィーツ(特にクリームあんみつ)
  • 嫌いな食べ物:梅干し、納豆。

~⭐将軍になれなかった男 結城秀康⭐ ~(8)実父は徳川家康・養父は豊臣秀吉! 自分の存在って一体何?『将軍の兄』として短い生涯を終えた切なくて熱い人生の物語💖

2022/03/05

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こんにちは!戦国LOVEのアイコです(^^♪

早速、前回のお話続きから💖

秀吉へ、ウキウキ気分で出産報告をした秀康でしたが、いくら待っても返事は来ませんでした。
それは何故かと言うと・・・?

秀吉の子 鶴松 3歳で死去 ガーン😨!!

1591年8月、秀吉の溺愛する鶴松が、何と3歳という可愛い盛りで死去!

晩年、やっと授かった可愛い我が子なのに!
悲しみは相当なものだったようで、秀吉はその後すぐ寺に入り、喪に服していたのです。

秀吉さん、秀康の出産祝いに返事するどころじゃなかったのね。
失意の秀吉さん、胸中をお察しします。

まして、秀吉にとっては、前年から大切な人の死が続いていました。

1590年2月、無理やり家康に嫁がせた、妹の朝日姫が死去。


翌1591年2月、秀吉の弟であり右腕で、豊臣政権内外の政務・軍事面で活躍を見せ、
天下統一に貢献した豊臣秀長が死去。

秀長があと10年長生きしたら、豊臣政権は崩壊しなかっただろう、
なぁんて、歴史ファンからはよく言われていますよね。

同年4月には、“わび茶”を完成させた茶人であり、一時は秀吉から絶大な信頼を得るも、
仲が悪くなってしまった千利休が切腹(まぁ、これは秀吉さん自らが命令したんだけど。)

そして8月、今度は鶴松までもが!!

秀吉さん、どれだけ嘆き苦しみ、絶望したことか・・・

豊臣棄丸像(妙心寺蔵)

秀吉 朝鮮出兵を命じる

しかし、そんな失意も癒えない10月、秀吉は急に、
『来春には朝鮮と明国征伐に行くぞ~!』と諸国の大名に発令したのです。

同時に、朝鮮出兵の拠点を肥前(佐賀県と長崎県)の名護屋(なごや:愛知県の名古屋じゃないよ)
に構えると発表し、
諸将大名は各役割を与えられ、秀康の陣も名護屋城を警護する役目になりました。

1592年2月、徳川家康は兵一万五千を率いて江戸を出陣!
秀康も、結城の手勢千五百を率いて、これに従いました。

結城を出る際、妻・鶴子は見送りの挨拶には出てきたものの、形式的に別れの挨拶をしただけでした。

鶴子さん、
メンタルが元に戻ってないようで、心配だね。

それとも元々、面倒くさいお方なのかしらww
トリセツが必要な人みたいで、大変ですのぅ💧

秀康 名護屋城で警護する

4月、秀康は名護屋に到着。既に各地から30万を超す大軍が集結していました。
以前、豊臣家で一緒に養子だった宇喜多秀家や羽柴秀秋(後の小早川秀秋)は、朝鮮に渡っています。

『自分も、朝鮮に渡って戦いたい!』

秀康は、自分に渡航命令が出ないことを悔しく思いながらも、名護屋での警護を粛々と務めるのでした。

秀康さん、やる気満々なのに
いつも、実際の戦場で活躍する機会に恵まれないね。


今回も城の警護じゃ、せっかくの武勇が発揮できない。

そんな中、1592年7月、今度は秀吉の母 大政所が死去(享年76歳)
こうして秀吉は、2年半の間に、立て続けに大切な身内を失ってしまったのでした。

秀康 鶴子に手紙を書く

さて、渡航命令も出ないまま、名護屋での生活も1年が過ぎようとした頃、
秀康は、殺伐とした暮らしや寂しさに我慢しかねて、鶴子に、九州へ来て欲しいと手紙を書きました。

周りの武将達のほどんどが、妻や側室を連れてきていたし、鶴子もそろそろ元気に回復しているのでは??

佐賀で、首を長くして返事を待っていた秀康

そして、ひと月以上が経ち、やっと鶴子からきた手紙には、一言、

『子育てで忙しいから、無理!』

って、まさかの拒絶が!!

・・・マジですか⁉

ちょっと待った~~鶴子さん!
子育てで忙しいって・・・あなた育児放棄してませんでした?ww

秀康さん、
『分かりました。今すぐ行きます!』的な返事を期待して、
ルンルン気分で手紙を見たら・・・

まさかの断りに、吉本新喜劇並みにズッコケちゃったね!笑笑

鶴子さん、笑いの神様が降りてきてます?ww

でも、育児頑張っていたのは本当だったようで、お万の方からも、
『鶴子がやっと母性に目覚めて、松姫を可愛がって育てている』という手紙も来たのです。

それは良かったね!
ただ秀康さんにとっては、かなり寂しい・・・
と言うか切ない。

いつまで続くか分からない、この単調な毎日の警護任務。
朝鮮へ渡りたいのに待機させられるストレス。

支えて欲しい妻からは拒絶され、体も心も寂しさで爆発しそう!

こうして秀康は、新たに、岡山殿という側室を持つことにしたのでした。

さて、朝鮮の戦地はと言うと・・・日本軍が苦戦をし深刻な状況となっていました。


そして双方に決定的な戦果のない中、1593年8月、日本側の諸将が撤退を画策し、未決着のまま終息
となったのです。

豊臣秀頼 誕生

この約1ケ月後、豊臣政権にとって、また大きな出来事が起こります。

それは、秀吉の側室淀殿が、男子を出産したのです!名前は、お拾(ひろい)。
これが後の豊臣秀頼(ひでより)です☆

57歳で再び我が子を抱いた秀吉は、狂ったように喜び、もうこの子しか見えない!!
心配なのはこの子の行く末だけ!

良かったぁ!!
57歳でまたパパになれた!
豊臣家も、これで安泰かな!?

松姫 4歳で死去 ガーン😨!!

朝鮮出兵も終わりを迎え、1594年10月、秀康は、久しぶりに結城へ帰国を果たしたのでした。

実は一緒に、側室の岡山殿も連れて帰りました。しかも、岡山殿は妊娠していた!

おいおい、ちょっと大丈夫ですか?

3年近く留守をして、いきなりご懐妊の側室を連れて帰るなんて。
正室の鶴子さん的には、気分が悪いね。

何だかこの夫婦、いつも心がすれ違っちゃうな。

さらに11月、悲しい出来事が起こります。

当時4歳の松姫が、風邪をこじらせあっという間に死去してしまったのです!

ショック!!

鶴子は、狂ったように激しく泣き叫び、亡骸をいつまでも離さず、最後は気絶し倒れてしまいました。
可哀そうですね
😭

その後の鶴子は、自分の部屋に閉じこもり、二度と秀康と寝室を共にすることは無く、
2人の間に、新たに子供が生まれることはなかったんだって。

こういう方って、一度でも取り扱い間違えると、
和解が困難なクセのあるタイプ?


嫉妬とプライドと頑固さ。
女性の面倒なところを、バッチリ兼ね備えてますのう。
秀康さん、地雷を踏まず、穏便にやり過ごすしかないね。

長男 松平忠直 誕生

1595年7月、側室の岡山殿が、無事男子(幼名:国丸)を出産します。

そしてこの男子が後に、日本史上最悪の暴君⁉とも言われた、松平忠直(まつだいら ただなお)
となるのです~((+_+))

松平忠直像(浄土寺蔵)

将来、名高い暴君になる⁉ことはさておき、
秀康さん、愛する息子が誕生してよかったね!

さて、
秀頼が誕生し喜びつつも、その将来を案ずる秀吉、そしてこれを機に天下を狙う家康。
2人の父親の間で、またまた秀康は、翻弄されていくことになるよー☆

つづく💖次回をお楽しみに(^_-)-☆

参考文献:梓澤 要『越前宰相秀康』/志木沢 郁『結城秀康』/Wikipedia

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