プロフィール
名前:戦国アイコ
戦国武将とカフェが大好きな会社員
- 特徴:残業は嫌い。仕事の後カフェでまったりするのが大好き。
- 趣味:猫と遊ぶこと。推理小説を読むこと。
- モットー:ほどよく頑張る。
- 好きな食べ物:スウィーツ(特にクリームあんみつ)
- 嫌いな食べ物:梅干し、納豆。
プロフィール
名前:戦国アイコ
戦国武将とカフェが大好きな会社員
こんにちは!戦国LOVEのアイコです(^^♪
早速、前回のお話続きから💖
秀吉へ、ウキウキ気分で出産報告をした秀康でしたが、いくら待っても返事は来ませんでした。
それは何故かと言うと・・・?
1591年8月、秀吉の溺愛する鶴松が、何と3歳という可愛い盛りで死去!
晩年、やっと授かった可愛い我が子なのに!
悲しみは相当なものだったようで、秀吉はその後すぐ寺に入り、喪に服していたのです。
秀吉さん、秀康の出産祝いに返事するどころじゃなかったのね。
失意の秀吉さん、胸中をお察しします。
まして、秀吉にとっては、前年から大切な人の死が続いていました。
1590年2月、無理やり家康に嫁がせた、妹の朝日姫が死去。
翌1591年2月、秀吉の弟であり右腕で、豊臣政権内外の政務・軍事面で活躍を見せ、
天下統一に貢献した豊臣秀長が死去。
秀長があと10年長生きしたら、豊臣政権は崩壊しなかっただろう、
なぁんて、歴史ファンからはよく言われていますよね。
同年4月には、“わび茶”を完成させた茶人であり、一時は秀吉から絶大な信頼を得るも、
仲が悪くなってしまった千利休が切腹(まぁ、これは秀吉さん自らが命令したんだけど。)
そして8月、今度は鶴松までもが!!
秀吉さん、どれだけ嘆き苦しみ、絶望したことか・・・
豊臣棄丸像(妙心寺蔵)
しかし、そんな失意も癒えない10月、秀吉は急に、
『来春には朝鮮と明国征伐に行くぞ~!』と諸国の大名に発令したのです。
同時に、朝鮮出兵の拠点を肥前(佐賀県と長崎県)の名護屋(なごや:愛知県の名古屋じゃないよ)
に構えると発表し、諸将大名は各役割を与えられ、秀康の陣も名護屋城を警護する役目になりました。
1592年2月、徳川家康は兵一万五千を率いて江戸を出陣!
秀康も、結城の手勢千五百を率いて、これに従いました。
結城を出る際、妻・鶴子は見送りの挨拶には出てきたものの、形式的に別れの挨拶をしただけでした。
鶴子さん、
メンタルが元に戻ってないようで、心配だね。
それとも元々、面倒くさいお方なのかしらww
トリセツが必要な人みたいで、大変ですのぅ💧
4月、秀康は名護屋に到着。既に各地から30万を超す大軍が集結していました。
以前、豊臣家で一緒に養子だった宇喜多秀家や羽柴秀秋(後の小早川秀秋)は、朝鮮に渡っています。
『自分も、朝鮮に渡って戦いたい!』
秀康は、自分に渡航命令が出ないことを悔しく思いながらも、名護屋での警護を粛々と務めるのでした。
秀康さん、やる気満々なのに
いつも、実際の戦場で活躍する機会に恵まれないね。
今回も城の警護じゃ、せっかくの武勇が発揮できない。
そんな中、1592年7月、今度は秀吉の母 大政所が死去(享年76歳)
こうして秀吉は、2年半の間に、立て続けに大切な身内を失ってしまったのでした。
さて、渡航命令も出ないまま、名護屋での生活も1年が過ぎようとした頃、
秀康は、殺伐とした暮らしや寂しさに我慢しかねて、鶴子に、九州へ来て欲しいと手紙を書きました。
周りの武将達のほどんどが、妻や側室を連れてきていたし、鶴子もそろそろ元気に回復しているのでは??
佐賀で、首を長くして返事を待っていた秀康。
そして、ひと月以上が経ち、やっと鶴子からきた手紙には、一言、
『子育てで忙しいから、無理!』
って、まさかの拒絶が!!
・・・マジですか⁉
ちょっと待った~~鶴子さん!
子育てで忙しいって・・・あなた育児放棄してませんでした?ww
秀康さん、
『分かりました。今すぐ行きます!』的な返事を期待して、
ルンルン気分で手紙を見たら・・・
まさかの断りに、吉本新喜劇並みにズッコケちゃったね!笑笑
鶴子さん、笑いの神様が降りてきてます?ww
でも、育児頑張っていたのは本当だったようで、お万の方からも、
『鶴子がやっと母性に目覚めて、松姫を可愛がって育てている』という手紙も来たのです。
それは良かったね!
ただ秀康さんにとっては、かなり寂しい・・・
と言うか切ない。
いつまで続くか分からない、この単調な毎日の警護任務。
朝鮮へ渡りたいのに待機させられるストレス。
支えて欲しい妻からは拒絶され、体も心も寂しさで爆発しそう!
こうして秀康は、新たに、岡山殿という側室を持つことにしたのでした。
さて、朝鮮の戦地はと言うと・・・日本軍が苦戦をし深刻な状況となっていました。
そして双方に決定的な戦果のない中、1593年8月、日本側の諸将が撤退を画策し、未決着のまま終息
となったのです。
この約1ケ月後、豊臣政権にとって、また大きな出来事が起こります。
それは、秀吉の側室淀殿が、男子を出産したのです!名前は、お拾(ひろい)。
これが後の豊臣秀頼(ひでより)です☆
57歳で再び我が子を抱いた秀吉は、狂ったように喜び、もうこの子しか見えない!!
心配なのはこの子の行く末だけ!
良かったぁ!!
57歳でまたパパになれた!
豊臣家も、これで安泰かな!?
朝鮮出兵も終わりを迎え、1594年10月、秀康は、久しぶりに結城へ帰国を果たしたのでした。
実は一緒に、側室の岡山殿も連れて帰りました。しかも、岡山殿は妊娠していた!
おいおい、ちょっと大丈夫ですか?
3年近く留守をして、いきなりご懐妊の側室を連れて帰るなんて。
正室の鶴子さん的には、気分が悪いね。
何だかこの夫婦、いつも心がすれ違っちゃうな。
さらに11月、悲しい出来事が起こります。
当時4歳の松姫が、風邪をこじらせあっという間に死去してしまったのです!
ショック!!
鶴子は、狂ったように激しく泣き叫び、亡骸をいつまでも離さず、最後は気絶し倒れてしまいました。
可哀そうですね😭
その後の鶴子は、自分の部屋に閉じこもり、二度と秀康と寝室を共にすることは無く、
2人の間に、新たに子供が生まれることはなかったんだって。
こういう方って、一度でも取り扱い間違えると、
和解が困難なクセのあるタイプ?
嫉妬とプライドと頑固さ。
女性の面倒なところを、バッチリ兼ね備えてますのう。
秀康さん、地雷を踏まず、穏便にやり過ごすしかないね。
1595年7月、側室の岡山殿が、無事男子(幼名:国丸)を出産します。
そしてこの男子が後に、日本史上最悪の暴君⁉とも言われた、松平忠直(まつだいら ただなお)
となるのです~((+_+))
松平忠直像(浄土寺蔵)
将来、名高い暴君になる⁉ことはさておき、
秀康さん、愛する息子が誕生してよかったね!
さて、
秀頼が誕生し喜びつつも、その将来を案ずる秀吉、そしてこれを機に天下を狙う家康。
2人の父親の間で、またまた秀康は、翻弄されていくことになるよー☆
つづく💖次回をお楽しみに(^_-)-☆
参考文献:梓澤 要『越前宰相秀康』/志木沢 郁『結城秀康』/Wikipedia