戦国カフェ 〜OLが戦国武将をゆる〜く語るブログ〜

プロフィール

名前:戦国アイコ 
戦国武将とカフェが大好きな会社員

  • 特徴:残業は嫌い。仕事の後カフェでまったりするのが大好き。
  • 趣味:猫と遊ぶこと。推理小説を読むこと。
  • モットー:ほどよく頑張る。
  • 好きな食べ物:スウィーツ(特にクリームあんみつ)
  • 嫌いな食べ物:梅干し、納豆。

~⭐将軍になれなかった男 結城秀康⭐ ~(9)実父は徳川家康・養父は豊臣秀吉! 自分の存在って一体何?『将軍の兄』として短い生涯を終えた切なくて熱い人生の物語💖

2022/03/13

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こんにちは💖戦国LOVEのアイコです(^^)/

秀頼の誕生を機に、自分が死んだ後の不安と狂気にさいなまれていく豊臣秀吉。
今回は、秀頼LOVEを貫き過ぎた秀吉の切ない最期と、そんな秀吉に振り回される結城秀康のお話だよー☆

1593年、57歳にして、秀頼(幼名:お拾い)が誕生しパパになった秀吉。
もう頭の中にあるのは、この可愛い息子の将来だけ!

邪魔だと思う者は徹底的に排除し、秀頼サポート体制を確立していこうともがきます。

関白 豊臣秀次、 自害させられる

秀吉は、甥で養子の秀次に関白の役職を譲っていました。

しかし、我が子秀頼が誕生した今、跡継ぎ候補だった甥の関白秀次は邪魔な存在に・・・
1595年8月秀吉は、秀次に謀反の疑いがあるとし関白職をはく奪、高野山へ追放し自害させました。(享年28歳)

しかし、秀吉は秀次の自害だけでは足りなかったのか、秀次の妻妾、子供までも計38人あまりを、
三条河原で次々と斬殺してしまいます。

その中には、東国一の美女✨と言われた山形城主 最上義光(もがみよしあき)の次女の駒姫(こまひめ)も
含まれていました。

しかも、駒姫はまだ嫁いできたばかりで、秀次とは夫婦関係にさえなっていなかった!

駒姫像(専称寺蔵)

従兄は、あの伊達政宗。

一説には、最上義光から秀吉への助命嘆願が叶い、当日、家臣が斬殺を止めに行ったものの、
処刑場まであと100メートル!というところで、間に合わなかったそうな・・・泣。


享年わずか15歳。

処刑場までの100メートルは、あまりにも長過ぎた。
家臣が、ウサイン・ボルト並みに足が速かったなら・・・

何の罪もない秀次の関係者たちの処刑。
この非道な処刑のせいで、河原の砂利も流れる川の水まで、真っ赤に染まり、あたりは血の匂いが充満したと
伝えられています。

コワすぎる💦
なぜ秀次さんの側近まで殺す必要があったの?

秀次とも面識があり、当時一緒に養子の立場だった秀康さん。
もし結城家に出されず、あのまま豊臣ファミリーにいたら、
今頃、命は無かったかも⁉

クワバラ、クワバラ。

秀吉、聚楽第を破壊する

秀吉はさらに、秀次に住居として与えていた聚楽亭までも、謀反人の居城を残すのは忌々しい!!と、徹底的に破壊することを命じます。

『聚楽第図屏風』部分(三井記念美術館所蔵)

こうして壮大華麗な聚楽第は、竣工から破却まで、たった8年弱という短期間で跡形もなく消え失せ、
ポッカリ穴の空いた更地になってしまったのでした。

秀吉さん、狂気!
イっちゃてる!

甥の秀次の縁者と、血筋をすべて根絶やしに!
さらに、その存在までも皆の記憶から消し去りたかったの?

五奉行・五大老制へ

この豊臣秀次事件は、豊臣政権に政治危機をもたらします。

そりゃそうだよ~
政務トップの関白とその関係者全部殺しちゃったんだから。

豊臣政権内部には激震が走り、不安が広がっているよ。
さらに長男の秀頼は、まだ3歳で何にも出来ない!

組織はいつも内部から崩壊する、まさに典型ですのぉ。

危機を感じた秀吉は、各大名を急遽、京都の伏見城に召集します。

7月に待望の男子が誕生したばかりの秀康でしたが、この非常事態の召集に、やむなく伏見城に向かったのでした。

少し前に、やっと約3年ぶりに結城に戻ってきたのに、
また呼び戻されてしまった。

なかなか結城でゆっくり過ごせませんなぁ。

さて、秀吉にとって一番の脅威は、240万石という圧倒的勢力を持つ徳川家康の存在でした。
自分の死後、家康が豊臣家を乗っ取ってしまうのではないか?


考えた秀吉は、秀頼が成人するまでの政治運営を「五大老・五奉行」制度として、
有力大名5人と、石田三成ら豊臣家吏僚による合議制という形を取らせることにしました。

五大老には、前田利家、毛利輝元、小早川隆景、宇喜多秀家、徳川家康を指名(のち小早川隆景が亡くなると上杉景勝となります)
この面々なら、いざ家康が暴走しようとする時でも、四対一の数の理論で、それを防ぐ事ができると考えたのです。

さらに五奉行として、浅野長政、石田三成、増田長盛、長束正家、前田玄以の5名を指名。
五大老が豊臣政権の中枢を担い、五奉行がその下で実務を担当するよう制定しました。

これで一応、形上は、
家康の勝手には出来ない仕組みにした、はず。


でも秀吉は「五大老・五奉行」制度が、
本当に機能すると思って死んでいったのかなぁ?

秀康、秀吉への忠誠を誓う⁉

それでもまだ不安な秀吉は、各大名諸将に対し『秀吉と秀頼に対して異心なきこと』を
誓わせました。

秀康は、前田利家と宇喜多秀家が提出した誓紙に連署させられます。

家康もまた、毛利輝元と小早川隆景の連署で誓紙を提出し、秀頼を支え豊臣政権を守ることを誓わされたのでした。

秀吉さん、60歳という還暦を目前に、焦り始めたね。
人の気持ちは、紙切れ1枚で掴めないと思うけど。

人たらしの秀吉さんなら理解できたはず!!
でも晩年の秀吉さん、豊臣家の安泰だけを考えて焦っていたのかな~

豊臣家の将来への不安は、もう底なし沼状態❓

秀康、豊臣秀頼の兄になる⁉

すっかり周りに対して疑心暗鬼になっている秀吉。

家康を筆頭に、誰が裏切るのか⁉
大名諸将を国に戻せば、結託してどんな謀反を企てるか分からない!
近くに置いて、監視せねば!

こうして秀吉は、伏見や大阪に召集した大名達を離さず、一向に帰国を許しません。


そのため大名達は、秀吉が京都、大阪を往来するのに合わせ、近くに自邸を構え城に登城する日々を送ります。

けれど秀康は、

『もう早く切り上げて、結城に帰りたい!子供の顔が見たい!』

そう切に願い、秀吉に帰国を願い出てみたのですが・・・許されることはありませんでした。

そんな秀康に、秀吉は猫なで声でささやきます。

秀康、おまえには秀頼の兄貴分になって欲しいのじゃ!

結城家に出す際、家康をけん制しろと頼んだことを忘れてはおらぬな?

お前が頼りなのじゃ。
関東の抑えはおまえしかできぬ!

あれれ?
以前、秀康が邪魔になって、豊臣家から追い出したよね?


今になって秀吉さん、
『昔可愛いがったよね?感謝してるよね?豊臣側だよね?』
って、何か見苦しいぞ。

状況が変わると、
手の平返してすり寄ってくるこーゆー人、いますねぇww

秀康、側室 岡山殿を呼び寄せる

結城に帰りたい秀康。
だけど、ここで無理やり結城に帰れば、今神経質になってる秀吉からは謀反ありと疑われてしまう。

結局秀康は帰国をあきらめ、側室の岡山殿と国丸を自邸に呼び寄せることにし、母のお万の方へ、
2人を寄こして欲しいと手紙を書きました。

すると、伏見にやってきたのは岡山殿ただ一人。
聞けば、お万の方が国丸を可愛がっているので、取り上げ連れてくるのは忍びなかったとのこと。

さらに、正室の鶴子は岡山殿を憎んでいて、いつもは顔を合わせるのも拒否しているけれど・・・

だけど一転、岡山殿がいない時には、国丸を可愛がってくれるんだとか。

あれ?側室は憎いけど、結城家の大事な嫡男は可愛いのね。
鶴子さんって、冷たい人?優しい人?


女心は複雑で、アイコにはよく分からんわww

まっ、子供を可愛がるのなら、
お万の方もいるし、結城に置いてきても大丈夫なのかな。

秀吉、再び朝鮮出兵を命令する

1595年11月頃から、秀吉は体調を崩すようになり、時々ヨロつくようになってきました。

そんな状況でも、海外征服への執着が衰えない秀吉。
大阪城で明国からの使節と会い講和交渉を行いますが、決裂してしまいます。

そして1597年2月、秀吉は再度の朝鮮出兵(慶長の役)を命じ、14万余りの大軍が海を渡ったのでした。

総大将は加藤清正と小西行長。
そして黒田長政、宇喜多秀家ら前回出征した大名が再び渡航を命じられましたが、秀康やその他多くの大名諸将たちは、肥前名護屋城への出陣も免れたのでした。

そんな中、また秀康に嬉しい出来事が💖
同年12月、岡山殿は二人目の男子を出産したのです。
名前は虎之介、後の松平忠昌(ただまさ)です。

秀康さん、また子供を連れての凱旋帰国ですのぅww
鶴子さんの反応大丈夫かなぁ~

秀吉、死期が迫る

翌1598年3月、秀吉は京都の醍醐寺にて、壮大な花見を開催します。
当日は春爛漫の好天に恵まれ、側室達は豪華絢爛な衣装を競い合い、それはもう夢のよう・・・

けれど秀吉は杖をつき両脇を侍女に支えられ、足元もおぼつかない状態でした。

この花見以降、みるみる弱っていく秀吉。
7月に入ると死期を悟ったのか、改めて後のことを前田利家と家康に懇願し、誓紙を出させます。

一方で、家康に頼み切れない不安があったため、
秀頼と家康の孫で秀忠の第一子・千姫との婚約を決め、徳川家とのつながりの強化に努めるのでした。

当時、秀頼は6歳、千姫は1歳。
秀吉さん、よっぽど家康さんを警戒していたんだね。

豊臣秀頼像(養源院蔵)

秀康が秀吉の見舞いに行くと

どうか秀頼を頼む~
秀頼の兄だと思って、守ってやっておくれ~

と秀康の手を握り、繰り返し繰り返し声が枯れるまで懇願する秀吉なのでした。

そして1598年8月18日、ついにこの時がきます
伏見城にて、豊臣秀吉 死去(享年63歳)

辞世の句は、

「露と落ち 露と消えにし我が身かな 浪速(なにわ)のことは 夢のまた夢」 

※我が身は露のようにこの世に生まれ、露のように消えていく。
何もかも全て、まるで夢の中で夢を見ているような、なんとも儚い生涯だった。

裸一貫から天下人に成りあがり、
最高の地位と栄華を極めた男の辞世の句にしては、

人の世のはかなさと切なさを強く表現していて、ちょっと意外。

慶長の役 終結

さて、各諸将が疲弊した中で戦っていた2回目の朝鮮出兵(慶長の役)。

この戦争を推し進めていた秀吉が死去したため、もはや続ける理由は無く、10月15日、
五大老による帰国命令が発令され、戦争は終結となったのでした。

豊臣秀吉の死。家康はまさに、この時を待っていた!!


家康の天下に向けて、ここから一気に動きだしていくよーー☆

秀康は、秀吉から何度も『秀頼を頼む!』と懇願され続けたけれど・・・
これからどう動いていく?

豊臣に味方するの?それとも実父、家康側につくの?

じゃあまた来週。次回をお楽しみに☆(*^^)v

参考文献:梓澤 要『越前宰相秀康』/志木沢 郁『結城秀康』/Wikipedia

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