戦国カフェ 〜OLが戦国武将をゆる〜く語るブログ〜

プロフィール

名前:戦国アイコ 
戦国武将とカフェが大好きな会社員

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  • 嫌いな食べ物:梅干し、納豆。

~⭐将軍になれなかった男 結城秀康⭐ ~(10)ついに秀吉が死去。満を持して動き出す徳川家康。果たして結城秀康はどう動く?家康は秀康をどう使う?そして関ヶ原へのカウントダウンは始まった!

2022/03/20

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こんにちは!戦国LOVEのアイコです(^_-)-☆
今回は、豊臣秀吉の死去から関ヶ原の戦いまでの、結城秀康の行動を追っていくよー☆

アイコの好きな石田三成💖と秀康の素敵なエピソードも・・・

豊臣政権 内部崩壊、始まる

1598年、豊臣秀吉が死去。
これにより、豊臣家の内部の派閥・秩序が一気に崩れていきました。

秀吉の政務補佐官だった、石田三成を中心とする文治派 VS 加藤清正・福島正則ら武断派の対立が表面化していきます。

【 石田三成/Wikipediaより 】

【 加藤清正/Wikipediaより 】

両派とも秀吉の子飼い大名でありながら、豊臣政権が確立してからは、石田三成を中心とする文治派は
文官として政権の中心に座り、武断派は中心から遠ざけられていました。

自分達をこどごとく苦境に追い込んできたのは、秀吉側近の三成!

特に朝鮮出兵時、現場で戦った我々を殿下に悪く報告して許せない!
秀吉が亡くなった今、もう遠慮は不要!

とばかりに、武断派は三成への憎悪をあらわにし、両者の確執は増し、豊臣政権は一気に政情不安に陥っていくのです。


徳川家康、結城秀康を取り込む

秀吉の死と、この内部抗争。家康にとっては、

待ちに待った大チャンス到来~!

当時、関東で240万石の領地を有し豊臣政権下最大の大名だった徳川家康。
豊臣恩顧大名の内部抗争を利用し、最終的に漁夫の利を得ようと虎視眈々と、政権の転覆を図ろうとしています。

ただそのためには、これから着実に布石を打っていかなくてはいけません。

ここで気にかかるのは息子、秀康の存在。

秀康は、結城家当主として、徳川傘下の一大名でありながらも、以前、豊臣家の養子だったことから、
石田三成や福島正則ともつながっています。

もしも、昔世話になった豊臣の大名たちに調略され、豊臣と手を組み徳川を裏切りでもしたら大変!!

逆に、裏切らないにせよ、豊臣と徳川の “中立の立場” でいられても困る。

今後、石田三成に対し、様々な謀略を仕掛けていこうと計画しているのに、秀康が中立の立場で両者の仲介に入ったら、
計画が狂ってしまう。

だから、この厄介な息子は、どうしても自分の側に組み込んでしまわなばならない!!

こうして家康は、秀康を確実に自分の陣営に入れるべく、秀吉死後早々に、江戸の屋敷に秀康を呼びだしたのです。

家康さん今まで、秀康には全く興味すらなかったのにね。

気づいたら秀康は、豊臣と徳川にとってのキーパーソン的存在に!!
今後の成り行き次第で、毒にも薬にもなってしまう。

一度は、家康にも秀吉に捨てられた秀康が、
今度は双方から取り合いになるなんて・・・皮肉ですのぉ。

結城秀康、家康に母の身を保証させる

家康の元を訪れた秀康。
きっぱりと、家康への忠誠を誓います。

『いったんは父上の元を離れましたが、ご縁あって関東の結城の地に入り、今再び命令を頂戴する身となりました。
父上のために命をおとしても構いません。御用の際は何なりとお申し付けください。』

豊臣か徳川か、もっと迷うのかと思ったら、
意外にもあっさりと、完全に家康側に付くことを宣言!


まぁ、秀吉から秀頼を頼む~とお願いされたけど、
亡くなった秀吉に忠義を尽くす理由もないし。

時世と自分の立場をちゃんと分かってましたね。

ただし秀康は、徳川のために戦うにあたり、一つ条件をつけました。
それは・・・

『父上のために働くからには、いつ命を落としても構いません。ただ、後に残す母上が心配です。
万一私がいなくなっても、どうか母の身だけは保証していただけませんか?』

どんな時も、自分を愛し味方でいてくれたお母さん。
こうして秀康は、家康への忠誠と引き換えに、一番大切な人『お万の方の身の保証』を求めたのです。

身分の低い出である母、お万の方は、秀康の存在だけが頼り。

お万の方は、秀康が大阪城で秀吉の人質になった際、息子会いたさから、徳川を勝手に出奔して大阪へ上り、
秀吉の庇護のもと大阪城下で暮らしたため、家康はお万の方に怒りを感じていました。

今は秀康が面倒を見ているけれど、もし秀康が死に、家康に処罰されてしまったら・・・

こうして家康は、秀康を完全に味方陣営に引き込むため、今後、秀康に万が一の事があっても、
お万の方の身を保証することを約束したのでした。

お万の方よかったね!

家康には冷遇されてきたけど、
秀康のお陰で徳川を出奔したことは許され、今後は安泰!

母親はある意味、徳川への人質みたいなもんだね~
これで、秀康は安心して戦える!


でも秀康さん、鶴子の心配はしなかったのね。
まぁ鶴子は、あーみえて本当はメンタル強いから、
大丈夫でしょうけどww

石田三成襲撃事件

1599年3月3日、五大老の一人前田利家が死去(享年60歳)。秀吉の死から、わずか8ケ月余のことでした。

【前田利家/Wikipediaより】


秀吉の死後、石田派と加藤派の対立が何とか収まっていたのは、前田利家が両者の仲介に入り
調停していたからこそ!


しかしこの利家の死去により、両派の対立を仲裁するものがいなくなってしまった!

そして翌日の3月4日、加藤清正率いる武断派七将は、大阪城下の加藤清正の屋敷に集合し、
そこから石田三成の屋敷を襲撃し、三成を討ち取る計画を立てたのです。

ちなみにこの七将とは、

加藤清正、福島正則、加藤嘉明、浅野長政、池田輝政、細川忠興、黒田長政。

あらら。
前田さんが死んだ翌日に、いきなりですか❓


石田さん、秀吉殿下のために真面目に仕事してきただけなのに。
そんな石田さんを7人もの武断派の豪傑武将が襲撃するなんて、ひどいよ~
(アイコは石田派💖)

家康の調停と三成の失脚

事前に襲撃の情報を察知して石田三成は、伏見城下にある家康の屋敷へ逃げ込みました。

加藤清正ら武断派七将は、家康の屋敷を取り囲み、三成を引き渡すように要求しましたが、
家康は今はまだ三成を殺す時期ではないと考え、この要求を拒否。


その代わり七将には、
①三成を政界から引退させ、居城・佐和山城に籠らせる事
②朝鮮出兵での戦いの査定を見直す事

を約束し、双方の和睦を成立させました。

家康さん、二派を上手く仲裁して、また存在感を高めたね!
アンチ家康の前田利家がいなくなった今、事実上、

豊臣政権ナンバーワンの実力者!

当時56歳。
チャンスをつかむために、健康で長生きすることは大切だよね~

結城秀康、三成を護送する

さて、ここで秀康は家康から、ある役割を命令されます。

それは、石田三成を、伏見城から三成の居城である佐和山城へ護送すること。

秀康さんに護衛を頼むなんて、家康さんも考えたね。

七将は、まさか家康の子には手を出せない。
でも、三成憎しの気持ちが治まらず、

手を出してきて秀康まで襲われることもあり得る。

秀康さんを駒としてしか考えていないこの父親は、
まぁどちらに転んでもいいか~ってところなのでしょう。

秀康さん、護衛という大役、頑張って!!

結城秀康、石田三成との思い出

秀康と三成は、大阪城で秀康が人質養子だった頃に、交流がありました。
1584年に養子になった当時、秀康は11歳、三成は25歳。

当時の石田三成と言えば・・・

1582年6月、信長が本能寺の変で討ち死に後、秀吉が次の天下人としての地位を固めるにつれ、秀吉の側近として
次第に台頭してゆき、

1583年、賤ケ岳の戦いでは、柴田勝家軍の動向を探る偵察行動を担当し、また先駈衆として一番槍の功名をあげるなど、目覚ましい活躍を見せ、側近としての地位を確立していました。

11歳の秀康からは、ひどく大人っぽく見え、きびきびした話し方で冷静沈着、かなり理知的に
見えました。

思い出すと・・・
大阪城で秀康が、先に養子だった豊臣秀次から大量の酒を飲まされて、ぐでんぐでんに酔っ払い吐き気に耐えている時に、石田三成と大谷吉継が介抱してくれたこともありました。

秀次には気をつけろと、忠告してくれこともあったっけ。

結城秀康、佐和山城へ

そして今、秀康は25歳、三成は39歳。

(いつの間にか、この人も歳をとったな。)

久しぶりに会った三成は、目じりに深い皺が刻まれ、苦労が顔にしみついているようでした。

こうして秀康は、三成と横に並んで馬に乗り、家臣には前後左右、三成を囲むようにさせ警護しながら佐和山城へ
向かったのでした。

ちなみに、伏見城(京都伏見区)から佐和山城(滋賀県彦根市)までは約80㎞。
歩くと14時間だそうです~


きっと道中、楽しかったあの頃の思い出話に花が咲いた?

京都の醍醐や山科までくると、佐和山城からの迎えが来ていました。
『もうこの辺りにて・・・』と三成が言っても、返事もせず馬を進める秀康。

更に滋賀に入り大津辺りまできた時、三成は馬から下り、
『もはや、わが兵どもが揃ってまいりましたので、どうぞお帰りください』と伝えます。

けれど、

『いえいえ、佐和山の手前までは・・・』と秀康。
『いえ、それでは面目が立ちません。どうぞここで。』と三成。

その時、秀康は思わず、三成に言ってしまいます。

『三成どの、どうか父にハメられないように気を付けてください!』

父の謀略にけしかけられて行動しないように!
どうか、慎重に気をつけて行動して欲しい!

今や、自分は家康側で三成は敵。

けれど、養子として大阪城内で暮らしていた頃、
慣れない生活と人間関係の中、何かと気にかけ面倒を見てくれた三成。


どうか負けないで頑張って欲しい!

思わず立場を忘れ、秀康さんの口から出てしまったんでしょう。
溢れる気持ち、抑えきれなかったんだね。

それを聞いた三成は、


『お立場というものがあります。そういう事を言ってはいけません。』

と三成らしく冷静言い放ったものの、秀康の熱い想いに涙を流したのでした。

【 石田三成/Wikipediaより 】

結城秀康と石田正宗秘話

そしてついに佐和山での別れの時が。

別れ際に三成は、何と!豊臣秀吉からの拝領品である、当時、武将の間で羨望の的だった名刀・正宗(まさむね)を秀康に譲りました。

これは豊臣秀吉が実際に戦さで使い、この刀のお陰で何度も命拾いした、という曰く付きの刀!
秀康も昔、何度か秀吉自身から見せてもらい、若き日の武功の自慢話を聞かされていた、あの名刀!

【 石田正宗/東京国立博物館所蔵 】

まさに三成にとっては秀吉の形見。けれど三成は、

『結城宰相どのに受け取っていただければ、これほどの幸せはござりませぬ。』

そう言って、秀康に手渡したのでした。

三成さん、秀康の想いがよっぽど嬉しかったんだろうね。

理性的でクールに見える三成さんだけど、
本当は、人一倍情に厚く心の優しい人なんだよね。


それをもっと表に出していれば、変な誤解を受けなかったのにな。

ちなみにその後、関ヶ原の戦い後、武士の間で「石田三成」の名を口にすること自体憚られる風潮の中、
秀康はこの刀を「石田正宗」と名付けて終生愛用したんだって。

いい話だよね😊💖💖💖

戦国豆知識 ~ 名刀・正宗とは?~

秀康さんが貰った「正宗」とは、刀剣ファンにはお馴染みの名刀です。

正宗さんは、日本刀の歴史の中でも最も有名な刀工の一人で、
鎌倉時代末期から南北朝時代初期の相模国(現:神奈川県)に活躍した刀工です。


現存する正宗は、国宝級、重要文化財級のものばかりだそうですよ~

作品「観世正宗(国宝)」「日向正宗(国宝)」「中務正宗(国宝)」「九鬼正宗(国宝)」など。

さて、次回は・・・
1600年5月、家康が上杉征伐の命令を出し、いよいよ関ヶ原の戦いが近づいてくるよー☆

秀康さん、家康に認められるような武功を挙げることが出来るのかな?

じゃあまた来週💖おたのしみに(^_-)-☆

参考文献:
梓澤 要『越前宰相秀康』/志木沢 郁『結城秀康』
司馬遼太郎 短編傑作集『結城秀康』/Wikipedia

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