
プロフィール
名前:戦国アイコ
戦国武将とカフェが大好きな20代独身会社員
- 特徴:残業は嫌い。仕事の後カフェでまったりするのが大好き。
- 趣味:猫と遊ぶこと。推理小説を読むこと。
- モットー:ほどよく頑張る。
- 好きな食べ物:スウィーツ(特にクリームあんみつ)
- 嫌いな食べ物:梅干し、納豆。
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名前:戦国アイコ
戦国武将とカフェが大好きな20代独身会社員
こんにちは!戦国LOVEのアイコです(^_-)-☆
今回は、豊臣秀吉の死去から関ヶ原の戦いまでの、結城秀康の行動を追っていくよー☆
アイコの好きな石田三成💖と秀康の素敵なエピソードも・・・
1598年、豊臣秀吉が死去。
これにより、豊臣家の内部の派閥・秩序が一気に崩れていきました。
秀吉の政務補佐官だった、石田三成を中心とする文治派 VS 加藤清正・福島正則ら武断派の対立が表面化していきます。
【 石田三成/Wikipediaより 】
【 加藤清正/Wikipediaより 】
両派とも秀吉の子飼い大名でありながら、豊臣政権が確立してからは、石田三成を中心とする文治派は
文官として政権の中心に座り、武断派は中心から遠ざけられていました。
自分達をこどごとく苦境に追い込んできたのは、秀吉側近の三成!
特に朝鮮出兵時、現場で戦った我々を殿下に悪く報告して許せない!
秀吉が亡くなった今、もう遠慮は不要!
とばかりに、武断派は三成への憎悪をあらわにし、両者の確執は増し、豊臣政権は一気に政情不安に陥っていくのです。
秀吉の死と、この内部抗争。家康にとっては、
待ちに待った大チャンス到来~!
当時、関東で240万石の領地を有し豊臣政権下最大の大名だった徳川家康。
豊臣恩顧大名の内部抗争を利用し、最終的に漁夫の利を得ようと虎視眈々と、政権の転覆を図ろうとしています。
ただそのためには、これから着実に布石を打っていかなくてはいけません。
ここで気にかかるのは息子、秀康の存在。
秀康は、結城家当主として、徳川傘下の一大名でありながらも、以前、豊臣家の養子だったことから、
石田三成や福島正則ともつながっています。
もしも、昔世話になった豊臣の大名たちに調略され、豊臣と手を組み徳川を裏切りでもしたら大変!!
逆に、裏切らないにせよ、豊臣と徳川の “中立の立場” でいられても困る。
今後、石田三成に対し、様々な謀略を仕掛けていこうと計画しているのに、秀康が中立の立場で両者の仲介に入ったら、
計画が狂ってしまう。
だから、この厄介な息子は、どうしても自分の側に組み込んでしまわなばならない!!
こうして家康は、秀康を確実に自分の陣営に入れるべく、秀吉死後早々に、江戸の屋敷に秀康を呼びだしたのです。
家康さん今まで、秀康には全く興味すらなかったのにね。
気づいたら秀康は、豊臣と徳川にとってのキーパーソン的存在に!!
今後の成り行き次第で、毒にも薬にもなってしまう。
一度は、家康にも秀吉に捨てられた秀康が、
今度は双方から取り合いになるなんて・・・皮肉ですのぉ。
家康の元を訪れた秀康。
きっぱりと、家康への忠誠を誓います。
『いったんは父上の元を離れましたが、ご縁あって関東の結城の地に入り、今再び命令を頂戴する身となりました。
父上のために命をおとしても構いません。御用の際は何なりとお申し付けください。』
豊臣か徳川か、もっと迷うのかと思ったら、
意外にもあっさりと、完全に家康側に付くことを宣言!
まぁ、秀吉から秀頼を頼む~とお願いされたけど、
亡くなった秀吉に忠義を尽くす理由もないし。
時世と自分の立場をちゃんと分かってましたね。
ただし秀康は、徳川のために戦うにあたり、一つ条件をつけました。
それは・・・
『父上のために働くからには、いつ命を落としても構いません。ただ、後に残す母上が心配です。
万一私がいなくなっても、どうか母の身だけは保証していただけませんか?』
どんな時も、自分を愛し味方でいてくれたお母さん。
こうして秀康は、家康への忠誠と引き換えに、一番大切な人『お万の方の身の保証』を求めたのです。
身分の低い出である母、お万の方は、秀康の存在だけが頼り。
お万の方は、秀康が大阪城で秀吉の人質になった際、息子会いたさから、徳川を勝手に出奔して大阪へ上り、
秀吉の庇護のもと大阪城下で暮らしたため、家康はお万の方に怒りを感じていました。
今は秀康が面倒を見ているけれど、もし秀康が死に、家康に処罰されてしまったら・・・
こうして家康は、秀康を完全に味方陣営に引き込むため、今後、秀康に万が一の事があっても、
お万の方の身を保証することを約束したのでした。
お万の方よかったね!
家康には冷遇されてきたけど、
秀康のお陰で徳川を出奔したことは許され、今後は安泰!
母親はある意味、徳川への人質みたいなもんだね~
これで、秀康は安心して戦える!
でも秀康さん、鶴子の心配はしなかったのね。
まぁ鶴子は、あーみえて本当はメンタル強いから、
大丈夫でしょうけどww
1599年3月3日、五大老の一人前田利家が死去(享年60歳)。秀吉の死から、わずか8ケ月余のことでした。
【前田利家/Wikipediaより】
秀吉の死後、石田派と加藤派の対立が何とか収まっていたのは、前田利家が両者の仲介に入り
調停していたからこそ!
しかしこの利家の死去により、両派の対立を仲裁するものがいなくなってしまった!
そして翌日の3月4日、加藤清正率いる武断派七将は、大阪城下の加藤清正の屋敷に集合し、
そこから石田三成の屋敷を襲撃し、三成を討ち取る計画を立てたのです。
ちなみにこの七将とは、
加藤清正、福島正則、加藤嘉明、浅野長政、池田輝政、細川忠興、黒田長政。
あらら。
前田さんが死んだ翌日に、いきなりですか❓
石田さん、秀吉殿下のために真面目に仕事してきただけなのに。
そんな石田さんを7人もの武断派の豪傑武将が襲撃するなんて、ひどいよ~
(アイコは石田派💖)
事前に襲撃の情報を察知して石田三成は、伏見城下にある家康の屋敷へ逃げ込みました。
加藤清正ら武断派七将は、家康の屋敷を取り囲み、三成を引き渡すように要求しましたが、
家康は今はまだ三成を殺す時期ではないと考え、この要求を拒否。
その代わり七将には、
①三成を政界から引退させ、居城・佐和山城に籠らせる事
②朝鮮出兵での戦いの査定を見直す事
を約束し、双方の和睦を成立させました。
家康さん、二派を上手く仲裁して、また存在感を高めたね!
アンチ家康の前田利家がいなくなった今、事実上、
豊臣政権ナンバーワンの実力者!
当時56歳。
チャンスをつかむために、健康で長生きすることは大切だよね~
さて、ここで秀康は家康から、ある役割を命令されます。
それは、石田三成を、伏見城から三成の居城である佐和山城へ護送すること。
秀康さんに護衛を頼むなんて、家康さんも考えたね。
七将は、まさか家康の子には手を出せない。
でも、三成憎しの気持ちが治まらず、
手を出してきて秀康まで襲われることもあり得る。
秀康さんを駒としてしか考えていないこの父親は、
まぁどちらに転んでもいいか~ってところなのでしょう。
秀康さん、護衛という大役、頑張って!!
秀康と三成は、大阪城で秀康が人質養子だった頃に、交流がありました。
1584年に養子になった当時、秀康は11歳、三成は25歳。
当時の石田三成と言えば・・・
1582年6月、信長が本能寺の変で討ち死に後、秀吉が次の天下人としての地位を固めるにつれ、秀吉の側近として
次第に台頭してゆき、
1583年、賤ケ岳の戦いでは、柴田勝家軍の動向を探る偵察行動を担当し、また先駈衆として一番槍の功名をあげるなど、目覚ましい活躍を見せ、側近としての地位を確立していました。
11歳の秀康からは、ひどく大人っぽく見え、きびきびした話し方で冷静沈着、かなり理知的に
見えました。
思い出すと・・・
大阪城で秀康が、先に養子だった豊臣秀次から大量の酒を飲まされて、ぐでんぐでんに酔っ払い吐き気に耐えている時に、石田三成と大谷吉継が介抱してくれたこともありました。
秀次には気をつけろと、忠告してくれこともあったっけ。
そして今、秀康は25歳、三成は39歳。
(いつの間にか、この人も歳をとったな。)
久しぶりに会った三成は、目じりに深い皺が刻まれ、苦労が顔にしみついているようでした。
こうして秀康は、三成と横に並んで馬に乗り、家臣には前後左右、三成を囲むようにさせ警護しながら佐和山城へ
向かったのでした。
ちなみに、伏見城(京都伏見区)から佐和山城(滋賀県彦根市)までは約80㎞。
歩くと14時間だそうです~
きっと道中、楽しかったあの頃の思い出話に花が咲いた?
京都の醍醐や山科までくると、佐和山城からの迎えが来ていました。
『もうこの辺りにて・・・』と三成が言っても、返事もせず馬を進める秀康。
更に滋賀に入り大津辺りまできた時、三成は馬から下り、
『もはや、わが兵どもが揃ってまいりましたので、どうぞお帰りください』と伝えます。
けれど、
『いえいえ、佐和山の手前までは・・・』と秀康。
『いえ、それでは面目が立ちません。どうぞここで。』と三成。
その時、秀康は思わず、三成に言ってしまいます。
『三成どの、どうか父にハメられないように気を付けてください!』
父の謀略にけしかけられて行動しないように!
どうか、慎重に気をつけて行動して欲しい!
今や、自分は家康側で三成は敵。
けれど、養子として大阪城内で暮らしていた頃、
慣れない生活と人間関係の中、何かと気にかけ面倒を見てくれた三成。
どうか負けないで頑張って欲しい!
思わず立場を忘れ、秀康さんの口から出てしまったんでしょう。
溢れる気持ち、抑えきれなかったんだね。
それを聞いた三成は、
『お立場というものがあります。そういう事を言ってはいけません。』
と三成らしく冷静言い放ったものの、秀康の熱い想いに涙を流したのでした。
【 石田三成/Wikipediaより 】
そしてついに佐和山での別れの時が。
別れ際に三成は、何と!豊臣秀吉からの拝領品である、当時、武将の間で羨望の的だった名刀・正宗(まさむね)を秀康に譲りました。
これは豊臣秀吉が実際に戦さで使い、この刀のお陰で何度も命拾いした、という曰く付きの刀!
秀康も昔、何度か秀吉自身から見せてもらい、若き日の武功の自慢話を聞かされていた、あの名刀!
【 石田正宗/東京国立博物館所蔵 】
まさに三成にとっては秀吉の形見。けれど三成は、
『結城宰相どのに受け取っていただければ、これほどの幸せはござりませぬ。』
そう言って、秀康に手渡したのでした。
三成さん、秀康の想いがよっぽど嬉しかったんだろうね。
理性的でクールに見える三成さんだけど、
本当は、人一倍情に厚く心の優しい人なんだよね。
それをもっと表に出していれば、変な誤解を受けなかったのにな。
ちなみにその後、関ヶ原の戦い後、武士の間で「石田三成」の名を口にすること自体憚られる風潮の中、
秀康はこの刀を「石田正宗」と名付けて終生愛用したんだって。
いい話だよね😊💖💖💖
秀康さんが貰った「正宗」とは、刀剣ファンにはお馴染みの名刀です。
正宗さんは、日本刀の歴史の中でも最も有名な刀工の一人で、
鎌倉時代末期から南北朝時代初期の相模国(現:神奈川県)に活躍した刀工です。
現存する正宗は、国宝級、重要文化財級のものばかりだそうですよ~
作品「観世正宗(国宝)」「日向正宗(国宝)」「中務正宗(国宝)」「九鬼正宗(国宝)」など。
さて、次回は・・・
1600年5月、家康が上杉征伐の命令を出し、いよいよ関ヶ原の戦いが近づいてくるよー☆
秀康さん、家康に認められるような武功を挙げることが出来るのかな?
じゃあまた来週💖おたのしみに(^_-)-☆
参考文献:
梓澤 要『越前宰相秀康』/志木沢 郁『結城秀康』
司馬遼太郎 短編傑作集『結城秀康』/Wikipedia