プロフィール
名前:戦国アイコ
戦国武将とカフェが大好きな会社員
- 特徴:残業は嫌い。仕事の後カフェでまったりするのが大好き。
- 趣味:猫と遊ぶこと。推理小説を読むこと。
- モットー:ほどよく頑張る。
- 好きな食べ物:スウィーツ(特にクリームあんみつ)
- 嫌いな食べ物:梅干し、納豆。
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名前:戦国アイコ
戦国武将とカフェが大好きな会社員
今回の記事は、YouTubeでも配信しています!
こんにちは!戦国LOVEのアイコです(^^)/
前回、名胡桃城事件、そして真田信之の子孫の暴君が沼田藩を潰したお話をしたところ、
ブログ読者のS様から、こんな嬉しいメールをいただきました。
信之の子孫は分かったけど、弟の幸村(信繁)とその子孫はどうなったんですか?
アイコさん、是非、それも書いてください~
やっぱり、「日本一(ひのもといち)の兵(つわもの)」と呼ばれた真田幸村!人気がありますね。
実際、この幸村の子孫が辿った道もまた面白いんですよ。
ということで、今日はリクエストにお応えして、真田幸村と子孫について書いていくよー☆
【真田幸村・上田市立博物館所蔵】
真田幸村は、関ヶ原の戦いでは父昌幸とともに西軍につき、兄信之とその義父本多忠勝の必死の助命嘆願で、何とか助かるも、九度山へ送られ、昌幸とともに幽閉生活を送りました。
その後、昌幸は病死しますが、幸村は約14年の幽閉生活から脱出!
大阪冬の陣、夏の陣に参陣し、徳川家康をあと少しのところまで追い込むも、最後は敗れてしまいました。この戦いで、長男の大助も一緒に討ち死にしています。
ちなみに幸村は、大谷吉継の娘で正室・竹林院以外にも4人の側室がいて、合計で13人も子供がいたんですよ。
この中で今回は、二男の大八(守信)に注目しまーす。
真田大八は、幸村の次男として九度山で生まれました。母は正室の竹林院です。
1614年、大阪冬の陣では、兄の大助(14歳)、姉の阿梅(12歳)、阿菖蒲(8歳)や、他の子供らと共に大阪城へ入城しました。(大八は当時4歳)
冬の陣では、あの真田丸を築城するも、徳川側の策略で破壊され、城の堀を埋められた豊臣側。
まさに丸裸状態にされ、続く夏の陣では豊臣は明らかに劣勢となりました。
死を覚悟した幸村。ただ、
唯一の気がかりは、残された子供達のこと。
大坂城落城まで城内にいれば、男子は処刑され、女子も命が助かっても出家するしかない。
なんとか助けてもらう方法はないものか?
思いあぐねた幸村は、ある人物に子供達を託すことを決断しました。
ある人物、それは・・・
片倉小十郎重綱(かたくら こじゅうろう しげつな)です!
【 太平記拾遺四十二:片倉小十郎重綱(落合芳幾作)】
へっ!?片倉?それ誰?
・・・ってキョトンとしているあなたに説明しましょう!
片倉重綱は、奥州 伊達政宗の家臣です。
大阪夏の陣では、徳川方の伊達政宗隊の先鋒隊長を務め、「鬼の小十郎」と恐れらた猛将なのですよ。
ちなみに片倉重綱の父は、伊達家の重臣・片倉景綱(かげつな)。
父の片倉景綱は、伊達政宗より10歳年上で、政宗の名参謀でまさに右腕として活躍した人です。
この景綱の活躍なしには、伊達政宗の奥羽制覇は無かったと言われているよ。
【片倉小十郎景綱像(仙台市博物館所蔵)】
そして片倉景綱には、有名なエピソードがあります。
幼少期の伊達政宗は、疱瘡にかかった後遺症で右目が完全に飛び出し、醜い自分の姿が嫌で引きこもりがちでした。
景綱は、そんな伊達政宗の右目を、
何と刀で!勢いよく!
えぐり取ってしまったのですww
ヒエ~!!怖いよ~!家臣のすることか?
右目からは血が噴き出し、あまりの激痛に卒倒した政宗。
けれど景綱は、これから伊達家を率いていく政宗に強くあって欲しいとの願いから、
『この程度の痛みで武士が卒倒するなんて情けない!』とあえて厳しく叱責したんだって。
この出来事をきっかけとして、
政宗は、引きこもりから脱却、前向きに精力的に行動していくようになるんだよ。
【 伊達政宗像(東福寺霊源院)】
景綱はとても優秀な武将だったため、秀吉や家康からもスカウトがくる程でしたが、それを断り、生涯伊達家に忠義をつくしたんだとか。
この父親の息子が、今回登場の片倉重綱なのです。この親にしてこの子あり!
息子の重綱もまた、主君・伊達政宗から、最も信頼された家臣でした。
そして1615年の夏の陣(道明寺の戦い)では、後藤又兵衛らの豪傑を次々と倒し、真田幸村隊とも激闘を繰り広げます。
重綱は、幸村の敵だよね?
敵に、なんで子供を託すの?
って疑問に思うあなたに説明しよう!
後藤又兵衛が討ち死した後も、この片倉重綱は、幸村を相手に一歩も引かない戦いぶりを見せます。
そして、もう負けが濃厚になってしまった幸村隊は、やむなく敗走しました。
そんな幸村隊を猛追し、攻撃をしかけてくる徳川軍勢!!
けれど・・・
片倉重綱ら伊達の軍勢は、
幸村隊を追撃して来ない・・・。
自分を相手に、一歩も退かない激闘を挑み、けれど敗走する真田隊は追わないという配慮を見せた片倉重綱。
幸村は、武勇も人としても優れた重綱と、主君の伊達政宗なら、きっと我が子を守ってくれるはず!と賭けに出ました。
そして、最後の決戦を前に『自分はもう死にゆく運命だが、どうか子供達を助けて欲しい』と、
片倉重綱に手紙を書いたと言われています。
なんかスゴイ話だよね。
普通、激しく争った敵に自分の子供を託すか?
現代の感覚だと分からないよね。
そして片倉重綱と伊達政宗は、幸村の願いを受け入れ、
子供達を匿うことを、約束してくれたのです!
なるほど~。凄い話だね。
殺し合いしてる敵の子供を預かるのかぁ。
一流の人は一流の人同士、たとえその時、敵であったとしても、
この人物なら信頼出来る!っていう勘が働くものなのかな?
こうして幸村は、次男の大八と阿梅ら姉ら4人を密かに大阪城から片倉陣中へ送り届けました。
そして翌日、激闘の果て、ついに討ち取られてしまったのでした。(享年49歳)
その後、片倉重綱は幸村との約束通り、遺児5人を奥州・白石の居城へ連れて帰ることになったのです。
でもさ、アイコは疑問に思うんだよね。
夏の陣の戦場には、兄信之配下の、真田隊がいたはず。
なんで兄信之に頼まなかったの?
【 真田信之像(個人蔵)】
きっとそれは・・・
もし兄に預けてそれが徳川にバレると、苦労して存続させてきた真田の家が取り潰しになってしまう。
ただでさえ、九度山から脱出し、豊臣側について戦ったことで、徳川大名である兄には迷惑をかけている。
これ以上兄には迷惑はかけられない!
そんな想いだったんじゃないかな。
それとさぁ、豊臣恩顧の大名だった上杉家もいたよね。
確か幸村は以前、上杉家に人質に入って、
上杉景勝や直江兼続とも交流があったはず。
どうして上杉家を頼らなかったんだろう?
【上杉景勝像(上杉神社蔵)】
それはきっと・・・
上杉家も関ヶ原の戦いで敗軍になり、所領もかなり減らされ、徳川に対して過敏になっていて、
大阪の陣では、徳川方で戦い名誉挽回を図っている。
そんな状況で、反徳川の自分の子供達を預かる余裕はないはず、そう悟ったんじゃないかな。
幸村が伊達に賭けた理由は・・・
片倉重綱の人としての器の大きさを認めたのはもちろん、
もしかしたら、真田家と片倉家は信州に先祖を持つ同郷なので、そのよしみもあったのかもね。
それに伊達政宗といえば、秀吉、家康の巨大勢力に対し、抗いながら上手く生き延びてきた外様大名。
そんな政宗なら、反徳川の自分の子供も守ってくれるのではないか?って期待したのかも。
ちなみに、真田幸村と伊達政宗は、同じ1567年生まれなんだって。
伊達さん、同い年の幸村が子供を託したいという必死な願いに、何か感じるものがあったのかな?
ただ、幸村の子供、しかも男子を預かってることが徳川にバレたら、
絶対処分を受けてしまうよ~
でも伊達政宗と言えば、白装束姿や、町中を大きな金ぴかの十字架背負ってパレードして謝罪したり・・・
秀吉や家康に反抗し怒りを買っても、毎回、絶対絶命のピンチを切り抜けてきた謝罪の天才!!
そんな修羅場をくぐり抜けてきた人だから、幸村の子供を匿うことくらい大丈夫さ~とでも思ったのかな?ww
覚悟を決めて、片倉重綱が子供を預かることを許した伊達政宗って、
懐が深いよね!!
やっぱり粋で伊達な男ですのぉ💖
こうして幸村の次男大八とその姉たちは、片倉重綱の居城である白石城で養育され、その後大八は、片倉守信と名乗り片倉家家臣として仕えていました。
しかし1640年、
守信が28歳になった時、ある事件が起きます。
【真田守信(個人蔵)】
伊達忠宗が2代目の仙台藩主になると、守信は伊達家に召し抱えられ、名前を、片倉守信から真田守信へと改めてしまったのです。
すると・・・
これが、徳川幕府を刺激してしまい・・・
真田!?
何で、仙台藩に真田がいるんだ!?
ひょっとして、
逆賊、真田幸村の子じゃないのか?
幕府から怪しまれ、睨まてしまい、仙台藩に詰問状が届いてしまったのです!
焦った伊達家。
必死の弁明で対抗しますww
『真田幸村二男の大八は、7歳の時、京都での石合戦(石を投げ合う遊び)の見学中に石が当たり、亡くなってますよ~』
って、わざわざその証拠の記録も偽造して提出。
さらに、
『守信は徳川幕臣の真田信伊(のぶただ)の次男の政信の子なんですよ~』※信伊は真田昌幸の実弟
って、わざわざ家系図を偽造して提出。
うわぁ、家系図まで偽造したのね!
とにかくバレたらやばいんもんねww
そして結局、最終的に幕府から下された結論は・・・
お咎めなし!!
いや~危機一発!危なかったね。
必死に偽造して弁明した甲斐ありました!
そして、守信は急いで、真田守信 → 片倉守信へと改名したんだってさ。
大阪の陣から25年、ちょっとまだ真田を名乗るのは早かった!?
その後、真田の復姓が正式に叶ったのは、守信の息子・辰信(ときのぶ)の時でした。
それは1712年、守信(大八)が誕生してから、ちょうど100年後。
『すでに将軍家を憚るに及ばず』と伊達家から命を受けたのです!
要するに伊達家の考えとしては・・・
大阪の陣から100年近く経ったし、
もう幕府に気を使わなくて、いんじゃね?
ってことですねww
やった~!!
晴れて堂々と真田の姓が名乗れる!
長かった~!
でも途中ヤバかった~!何事も油断大敵だなぁ~。
でも、本当に良かった!
ちなみに、守信の姉たちはどうなったかというと・・・
姉の一人、阿梅は、片倉重綱の正室が早くに亡くなったため、継室として重綱の妻になりました。
子供は出来なかったけれど、穏やかに83歳まで長生きしたそうです。
ほかの姉たちも、片倉家で養育された後、しっかりした所へ嫁ぎました。
そして仙台真田家は、仙台藩士の家系として家督は存続し、現在まで続いています。
大切な我が子を、
敵の片倉重綱、伊達政宗に託すという、大胆な行動に出た真田幸村。
その賭けは、大きく吉と出ました!
幸村の、人を見る目に、間違いはなかったんだね~!
でも、重綱と政宗は、敵の幸村の願い聞く義理も道理もなかったはず。
その願いを拒む事も出来たよね。
もしくは、男子の守信(大八)を殺すことも、徳川に引き渡すことも出来た。
けれど・・・
片倉重綱と伊達政宗は、
幸村の期待に見事に応えたのでした!
仙台という地で、真田幸村の子孫が今も続いているのは、
リスクを承知で幸村の子供を守った、主君 政宗と、家臣 重綱のお陰なのですね。
とっても素敵なお話♪
じゃあまたね(^^)/~~~