プロフィール
名前:戦国アイコ
戦国武将とカフェが大好きな会社員
- 特徴:残業は嫌い。仕事の後カフェでまったりするのが大好き。
- 趣味:猫と遊ぶこと。推理小説を読むこと。
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- 好きな食べ物:スウィーツ(特にクリームあんみつ)
- 嫌いな食べ物:梅干し、納豆。
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こんにちは!戦国LOVEのアイコです(^^)/
今日は、前回からの続き、結城埋蔵金のお話だよ!
ゆっくりお茶しながら、語っていきましょー☆
日本各地に埋蔵金伝説は数あれど、その中でも『日本三大埋蔵金』(※埋蔵量)と呼ばれるものがあるそうです。
三大埋蔵金とは、
豊臣秀吉の埋蔵金、
徳川埋蔵金、
そして何と!結城埋蔵金!!
天下の豊臣家、徳川家、続いて茨城の結城家?
ていうか、
天下人に肩を並べる結城家って、一体何者!?
そもそも、この大金を手に入れたのは、結城家の祖・結城朝光 (ともみつ)にさかのぼります。
大河ドラマ “鎌倉殿の13人” では、イケメンな朝光さんが登場しましたね!
結城朝光/鎌倉殿の13人公式サイトより
結城朝光は、源頼朝の命で奥州藤原氏の討伐に参戦し、その恩賞として奥州藤原氏が保有していた莫大な黄金のほどんどを頼朝からの恩賞として、結城に持ち帰ったと言われています。
・重さ8キロの金の延べ棒がおよそ2万5千本
・7キロ弱の金の延べ棒が同じく2万5千本
・30キロの砂金が入った樽が108個
黄金の総重量は約380トンにもなり、単純計算で8000億円以上という説もあるんだとか!!
莫大すぎて、もう単位が、わけワカメ~
そして以後、結城家は、実質36万石程度にもかかわらず「結城百万石」と呼ばれるようになったんだって。
奥州藤原氏の拠点、平泉と言えば・・・
金山のお陰で莫大な富を手にすることができた、東北の黄金郷!
平安時代には、京都に次ぐ、日本第2の都市として繁栄するほどの都に!
この栄華を誇った奥州藤原氏の莫大な富を手にするなんて・・・
そりゃ~天下人と肩を並べる財力になるわなぁ。
ちなみに奥州藤原氏が建立した、中尊寺金色堂は栄華を象徴する建築で、
マルコ・ポーロの『東方見聞録』に「屋根は黄金色で葺かれ、窓飾りなどもみな黄金で作られている」と描写された "黄金の国ジパング" のイメージの元になった説があります。
よっぽど、きらびやかで華やかだったんでしょうね!
現在の中尊寺金色堂
奥州征伐で、頼朝さんからの恩賞で莫大な財産を手に入れた結城さん。
そして後に結城家17代当主・結城晴朝が、この財産を埋蔵することで、のちに『結城埋蔵金』と呼ばれるようになるのです。
そして、アイコはここで不思議に思うんだよね。
奥州征伐の頼朝軍の数は、約28万騎もの大軍で、結城朝光の他にもたくさんの有力御家人が参戦し活躍したはず。
畠山重忠、千葉常胤、八田知家、比企能員、佐竹さん、梶原さん・・・
でも、この御家人たちが、この奥州征伐後、埋蔵金と言われる程の財産を手にしたって話は聞かないよね。
なぜ頼朝は、結城朝光だけに破格の恩賞を与えたんだろう?
結城朝光は、藤原氏の重臣を討ち取ったらしいけど、
でも、その戦功は、そこまで特別な恩賞に値する価値だったの?
ここで注目したいのは、結城朝光の出生のお話!
歴史的には、結城朝光の父は下野国小山の豪族・小山政光、母は源頼朝の乳母も務めた寒河尼(さむかわのあま)となっては、います。
でも実は!!
結城朝光は、源頼朝と、寒河尼の娘との間に出来た子供ではないか?
という噂があるんですよ!
ホントかしら? ねぇ、どう思う~?
朝光には頼朝の庶子であるという説がある。『朝光公記』によれば、伊豆配流中の頼朝の世話をしていた寒河尼の娘との間に生まれ、寒河尼の実家・八田家へ預けられた後、小山政光と寒河尼の三男(四男説もある)として育てられたというのが、その伝説の筋であるが、幕府の公式記録『吾妻鏡』をはじめとする当時の一級資料には、一切、このことには触れられていないことから、信憑性はないと見られている。
― 結城朝光・Wikipediaより ―
Wikipediaでも、その説があることは認めつつも、証拠はないみたいですね。
ただ、幕府の公式記録である「吾妻鏡」は、北条家に不利な記録は記載しない、と言う特徴があるし、
もし子供だとしたら、実朝暗殺の後、結城家から将軍を、という話にもなってしまう。
そりゃ~認める訳にはいかないか(^-^;
でも朝光が本当に息子なら、
奥州征伐で、朝光だけが特別な恩賞をもらったのも、腑に落ちるね!
親心だのぅ。
実際、結城朝光は頼朝にとって特別な存在だったのでしょう。頼朝が可愛がり、いかに朝光を信頼していたかを物語るエピソードが沢山あります!
⭐頼朝が烏帽子親となり、結城朝光を元服させた。
頼朝の『朝』の字を与え,小山七郎宗朝(おやましちろうむねとも)と名付けました。
(のちに朝光と改名)
結城朝光は、小山家出身だから小山七郎宗朝で
のちの結城朝光さんの“朝”は、頼朝さんの朝、なのね!
⭐頼朝は、自分の寝所を警護する11名の中に、結城朝光を入れた。
寝所を警護するなんて、信頼されてる証よね!
⭐頼朝は自分の『御剣役』(※随伴して剣を携える太持ちのこと)に、結城朝光を10回以上勤めさせた。この回数は御家人の中で最多!
⭐頼朝は壇ノ浦の戦い後、戦勝報告のため東下した義経に対し、結城朝光を使わせて、義経に「鎌倉入り不可」の口上を伝える。(Wikipediaより)
頼朝は朝光に、絶対的な信頼を置いていたんだね~
これは、朝光さんが息子だったからか?
それとも、人格や能力によるものかは分からないけれどww
結城朝光と言えば、大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で2代目の頼家の代になった後、頼朝を偲んで、
『忠臣は二君に仕えず』と言うが、自分も出家しておくべきであった。
今は薄氷を踏んでいるような思いがする。
なぁんて嘆いてましたよね。
そりゃ~頼朝さんの時は、特別待遇だったもんね。
頼家さんの代になったら、“ 鎌倉殿の13人”にも入れてもらえないし。
朝光さんが嘆きたくなるのも分かるわww
その後、梶原景時が『この発言は謀反だ!』と頼家にチクったので、結城朝光が討たれるかと思いきや、状況は一変!
朝光を好きな実衣(北条政子の妹)が、朝光に『あなたは謀反の疑いをかけられてる!殺されるから逃げて!』と伝え、
朝光は親友の三浦義村に相談し、義村が有力御家人達を集めて、梶原景時の告げ口を問いただす御家人66人の連判状を突き付け、梶原景時を追放てしまいましたね。(梶原景時の変)
結城朝光の人望が垣間見れるエピソードでしたね。
ちょうど御家人たちの、梶原景時への不満が頂点に達していた事も重なり、朝光さんは命拾いしてラッキーでしたって言うお話でしたが・・・・・
でも・・・
ちょっと話が出来過ぎてない?
常に自分の利を考え、
そのためには、平気で身内までも裏切る三浦義村ですよ?
(※三浦義村役の山本耕二さんは素敵💖)
いくら結城朝光と親友で、梶原景時が嫌われてるとはいえ、結城朝光のために
そこまで自分の利もなく動くかなぁ?
そして御家人66人もが、梶原追放のために、一致団結するかなぁ?
何故、梶原さんの追放が、結城さんの発言のタイミングなんだろう? etc.
きっと・・・
日本屈指のお金持ちになった結城朝光は、財力に物を言わせ、裏で三浦義村や他の御家人たちを買収していたんじゃないかな?
だから、
結城朝光VS梶原景時なら、
断然!!結城朝光を助けた方が、お得!
梶原を追放しちゃえ!わぁーー!
みたいになった感じ。
このアイコの壮大な妄想、いかがでしょう?ww
東京オリンピックのスポンサー問題と同じだね。
まぁ、大人の貪欲な人は、自分の利がないと動かないからねww
でもアイコは、実衣のように、
好きな人のためなら利とかお金関係なく、無心で動くけどねー💖
さて偶然にも今日、この記事をアップした10月2日は、何と!結城朝光の日だそうですよ(^^)/
治承(じしょう)4年(1180年)10月2日、
寒河尼は、14歳になった朝光を初めて頼朝の元へ連れて行き、頼朝の近習(きんじゅう)として仕えさせてもらいたいと願い出、これを了承した頼朝が、早速、烏帽子親となって元服の儀式を行いました。
つまり10月2日は、結城朝光が、
日本史デビューを果たした記念すべき日!!
・・・と、結城市は主張していますww
『10月2日は結城朝光の日』詳しく結城市のサイトを見てね。
↓ ↓ ↓ ↓
https://www.city.yuki.lg.jp/page/page000762.html
さて、今日はこの辺で・・・続く☆
今回は、結城家の祖・結城朝光のお話がメインになりました(^^♪
ちょうど、朝光さんの日ということで、天国の朝光さんも喜んでるかな?
それとも、梶原景時の変では、お金の力で命拾いした~なんて妄想、迷惑だったかな?ww
次回は、
初代の朝光以降、歴代守ってきたお金を、17代の結城晴朝が埋蔵することになったのは何故?その後埋蔵金はどうなった!?ってお話。
じゃあまた!秋の夜長を楽しんでね~(^_-)-☆
画像引用:鎌倉殿の13人公式サイトより
https://www.nhk.or.jp/kamakura13/