プロフィール
名前:戦国アイコ
戦国武将とカフェが大好きな会社員
- 特徴:残業は嫌い。仕事の後カフェでまったりするのが大好き。
- 趣味:猫と遊ぶこと。推理小説を読むこと。
- モットー:ほどよく頑張る。
- 好きな食べ物:スウィーツ(特にクリームあんみつ)
- 嫌いな食べ物:梅干し、納豆。
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名前:戦国アイコ
戦国武将とカフェが大好きな会社員
皆さんこんにちは!アイコの部屋の時間です(*^^*) 今日も、織田信雄さんをゲストにお迎えしています。
【織田信雄/Wikipediaより】
早速ですが信雄さん、今回はいよいよ、信雄さんが世間的に「おバカのレッテルを貼られた理由③」のお話ですね!!
はい、これは「小牧長久手の戦い」での話です。
秀吉が46歳、家康様が41歳、そして私が26歳の時でした。
若かった私がその時とった行動が・・・
信雄さん!!私、そのエピソード知ってますよ♪
【小牧山城】
この戦いで信雄さんは、
①秀吉に対抗するため、徳川家康へ助けを求め、織田・徳川連合軍を組んだ。
②織田・徳川連合軍は、勝利を治め優勢だった。
にもかかわらず、
③信雄さんは勝手に!独断で!秀吉側に降参し、
戦いを終了させてしまった!!
ってお話ですよねー!!
アイコさん、よくご存じで💦
超有名な話ですよ!っていうか、織田信雄といえば、このヘタレエピソードでしょww
信雄さん、あれはないですよー💦 正直、おバカと呼ばれても仕方ないというか・・・自業自得というか・・・。
有利な戦いをしていた家康さんは、きっと、
「なんだよ信雄のやつ!!こっちが勝ってたのに!」
って、怒っていたんじゃないですか?
やっぱり後世では、「織田信雄のせいで、徳川有利の戦いが終わってしまった」
ってヘタレイメージが浸透してるようですね💦
でも、実は少し誤解があるんです!
今日は、この件についてちょっと弁明させてください!
【小牧城跡からの景色】
歴史上「小牧長久手の戦い」は、“徳川勢が勝っていた”と言われますが、なぜそう言われるか、知っていますか?
その理由は、徳川軍が局地戦で「敵の主力武将を何人も討ち取った」ことを、家康様がかなり喜び、家臣に宛てた書状で、
大勝利だよ!!と大袈裟にアピールしたからなんです。
それが後世に伝わって、徳川勝利のイメージにつながったんですよ!
局地戦での勝利アピールが、戦全体でも勝利していた、というイメージになった、
ってことですか?
まあ、そんなところです。
家康様は、軍の士気を上げる為、世間に、徳川の強さをアピールする為、
大げさに勝利をアピールしたのかもしれませんね。
ただ最近の歴史研究では、
小牧長久手の戦いは、徳川勝利ではありません。
確かに、戦いの局面、局面では、優勢な場面もありました。
徳川軍が、小牧山城を秀吉軍より先に奪い、有力な武将である池田恒興(いけだつけおき)や森長可(もりながよし)を討ち取ったりしてね。
でも、それは全体の戦いからすれば、一部の勝利にすぎません。
秀吉側は、最初こそ出鼻をくじかれましたが、数では、圧倒的に勝っていたんです。
織田・徳川軍3万に対し、秀吉軍は10万ですよ!
その他、兵糧などの物資や石高を考えても、信雄・徳川両陣営は、秀吉の足元にも及ばないんです。
もし戦いが長引けば、
秀吉軍は、必ず巻き返したでしょう。
またまた~、信雄さんたら全くヘタレさんなんだから!
三河武士の徳川軍を、甘く見たらいけませんよ。
いえいえ、アイコさん、私の話を聞けば納得ですよ。そして重要なところなんです!
この状況の中私は、長島城を秀吉軍に完全に包囲されたタイミングで、秀吉からの和議に応じたんです。
まぁ、なんだかんだ言っても、
やっぱり信雄さんが、勝手に降参しちゃったってオチじゃないですか!!
そうなんですが・・・
でも、戦いの全体をみれば、“一番良いタイミングで和睦した”ということを強調したいんです!
アイコさん、ちょっと考えてみてください。私が秀吉からの和議に応じたことで、
一番得をした人は、誰だと思いますか?
一番得した人!? 誰だろう?
引き分けだから、どちらも得も損もないんじゃないんですか?
ちなみに信雄さんは、勝手に降参しちゃって、めちゃくちゃイメージ最悪ですけどね!!
確かに私のイメージは最悪ですよね💦
でも、私が悪者になり、泥をかぶったおかげで・・・
家康様は、『秀吉に負ける事なく』戦を終わらせる事ができましたよね。
「勝っていたのに、信雄が勝手に降参したから仕方なく戦いをやめた」と言う風に。
つまり、一番得をしているのは家康様なんですよ!
はぁ。
でも確か、大河ドラマでの家康さんは『和睦せずに戦いたい!!戦っていたら勝利していたのに』って風に描かれてますよ?
本当に家康さんは、得しています!?そのまま戦っていたら、秀吉軍を倒していたんじゃないんですか?
実はここだけの話、家康様は、当時、そもそも秀吉と戦う余裕がなかったようです。
これは、あまり知られていないのですが、
小牧長久手の戦い(1584年)の前年から、徳川の領地である三河では「50年来の大水」(家忠日記)の自然災害が起きていて、田畑が荒廃し、多くの餓死者が出ていたんです。
一方の秀吉軍は、徳川討伐の為、岐阜城に大量の兵糧を備蓄するなど準備バッチリ!
これはもう、戦う前から勝敗はついていたも同然!!
そんな事もあって、
私の秀吉との講和は、家康様にとって渡りに船!!
グッドタイミング!!
家康様の本音は、戦いを早期にやめ、国の内政に尽力したかったんじゃないでしょうか?
へえ~、家康さんにも、そんな事情があったのかぁ。
じゃぁ、信雄さんの行動は、ナイスアシストだったんですね!?
でも・・・家康さんの戦況と状況を見極め、信雄さん自身で決断したって不自然じゃないですか?
もしかして、
家康さんから講和するよう命令されたとか!?
それは私の口からは言えませんよ~
まぁ、歴史上は、私が勝手に講和した事になっていますから。
ただ、
『歴史というのは、勝者が作ったストーリー』
だということは、皆さんに分かって欲しいですね。
特に家康様は、神になったお方ですから、神が自ら降参したという歴史を作る訳には行きません。
まぁ、いいんですよー私はどう言われても。
信雄さん、何かカッコイイよくな~い!?
ここにきてアイコの中では、イメージうなぎ上りだわ⤴
それにしても、もし、信雄さんが秀吉と講和せずに、
戦いが続いていたら、どうなってたんだろう?
多分、長引いていたら、間違いなく、徳川軍の戦況は不利になっていたでしょう。
その段階で講和したなら、秀吉は、もっと無理な条件を突き付けてきただろうし、
もしかしたら、徳川が滅ぶまで戦いを続けたかもしれません。
なるほど!!そう妄想してみると、
信雄さんの小牧長久手の戦いでの、一見、おバカで自分勝手に見える行動は・・・
実は、徳川に対してのナイスアシスト!!
だったのね!
その後の、徳川政権260年の功労者は、もしかして信雄さん!?
と言う訳で、今回は、信雄さん人生最大のおバカストーリー!と思いきや、織田信雄大活躍!というお話でした♪
信雄さん、今まで4回に渡り、お越しいただき有難うございました!
おバカと言われた信雄さんが、実は、そうではなかったらしい、特に、小牧長久手の戦いでは、徳川の陰の立役者だったことが分かりましたよー
ちょっとアイコさん、私の登場は今回で終わりじゃないですよ!
今までは、私がおバカと言われる話を弁明しただけですからね。
ほら、タイトルにある通り、
『令和の今こそ学びたい、織田信雄的生き方』は、ここからが本番です!!
えッ!?、そうなんですか!?(結構、もうお腹一杯なんだけど)
では、次回からはどんなお話になるんでしょうか?
皆さま、お楽しみに~(^^)/~~~